鑪ヶ谷は細竹が繁茂している
雪などで折れて一塊の枯竹になると、その隙間を通り抜けることもできなくなる
鑪ヶ谷の呼称があるように、鎌倉及び鎌倉の周辺で製鉄産業が行われていたことは、製鉄にかかわる遺跡が、鎌倉東北部の横浜市栄区上郷深田遺跡など、各地に点在することからも確かめられよう。ただし、地元で生産した鋼は、先に述べた正宗、行光、新藤五国光、国重などが製作した精妙な日本刀とは直接的なかかわりはなかったと思われる。
鎌倉の地質について、脆弱でとても崩れやすい凝灰岩質角礫岩や砂岩、泥岩であると説明した。崩れやすい堆積岩で、岩肌の露出しているところでは、堆積の地層が普通に観察できる。例えば化粧坂の切り通しでは、握りこぶし以下の大きさの礫の中に貝の化石が観察できる。また、同じところに砂鉄が地層を形成しており、化粧坂を上り切った辺りは砂鉄で真っ黒な部分が観察される。これらの砂鉄が風化によって川を流れ下り、海岸や川底に堆積しており、鉄器の材料として利用されたであろうことは間違いない。因みに、七里ガ浜の稲村ケ崎の辺りの海岸は、砂鉄で真っ黒である。明治期にはこの砂鉄が磨き材として利用されていたという。
ところが鎌倉の砂鉄は、日本刀の材料としては不向きであった。農具とは異なり、自らの身体を守るための日本刀の信頼できる材料は、実はきわめて繊細なものである。特に高級武将が腰に帯びる太刀には美しさが求められた。太刀や刀の美しさとは、一般的には反りのついた姿格好を思い浮かべる方も多いと思うが、鉄そのものの美しさについても、鎌倉時代初期にはすでに理解されていたと思われる。鉄を鍛え、焼き入れを施すことによって鉄が変化し、鉄の表面に意図を超越した自然な文様が現れる。この美しさである。単に殺人の武器としての性能だけではない。
日本刀を製作するための材料となる玉鋼は、主に中国山地の花崗岩中から採取される山砂鉄をたたらで製錬したものが用いられていた。中国山地の玉鋼は奈良時代にすでに租税として中央に送られている。これら良質の素材は、鎌倉に武家政権が生じて以降、当然のごとく鎌倉にも運ばれたのである。粗悪な鎌倉の砂鉄を日本刀に用いることはない。ただし、時には中国山地の優れた玉鋼と鍛え合わせて使用した可能性は否定できない。
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