鎌倉時代の刀工助真は、余りにも伝承が錯綜して実体が不明である。
鎌倉一文字と呼ばれている。
備前一文字の流れで鎌倉に鍛冶場を設けた一人である。
その後、鎌倉に相州伝なる作刀技術が発生し、正宗や貞宗などが知られているも、その相州伝鍛冶とは作風が異なる。
即ち直接の関係はない。
決して相州伝の創始に関わる鍛冶の一人ではない。
助真は奥州から来た鍛冶とも、三浦の沼間にいた鍛冶ともいわれるが、いずれも不詳。
さらにこれらの伝承から生じた創作が加わっているようだ。
北鎌倉から徒歩で数分の住宅地の中に、助真ゆかりの地があると言われている。
助真が冠していた「藤源次」がそのまま残る地名があり、ここ藤源次が助真の鍛冶場があった所だというのである。
ちょうど北鎌倉女子学園の下辺り。
住宅が密集していて、鍛冶場跡などあるのかないのかまったく分からない。
この近辺も、山際が掘削されて急な斜面(切岸)とされている。
所々で紹介しているように、ここにも小さな祠がある。
急な石段が設けられていて、斜面の一部が平場とされ、白山大権現が祀られている。
刀鍛冶が信仰したのは金屋子神社。
白山大権現社は助真とは関りがなさそうだ。
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