名越切り通し
名越の切り通しを東に越えると逗子市である。久木にある谷戸が比較的開発が進んでいない状態であり、谷戸が理解しやすいであろうと思い、ここを歩いてみた。法性寺の北隣の谷戸である。現在では溜池の手前まで住宅地として開発が進んでおり、どこまでが本来の大谷戸として捉えるべきか不明瞭な点が多い。奥行きが三百メートルほどのこの谷戸の最奥部を確認することを目的に、谷戸全体を眺めると、本谷戸の東に支谷戸が二つ、西に一つ、さらにその西が日蓮宗の法性寺が佇む谷戸となっている。
交通量の多い道路の谷戸口辺りから奥へと素直に歩くと溜池の手前で右に折れ、本谷戸の東に位置する支谷戸へと導かれる。山裾に沿って切り開かれた小道を進むと畑地があり、さらに奥に湧水地を持つ谷が深まっている。左右に迫る山裾はいずれも開削されて切り立ち、処々に小さなやぐらが遺されている。畑地の突き当たりは、一段高くなり、かつてはここに屋敷が存在したことを窺わせる植樹の痕跡もある。さらに谷の奥へと続くように開削された山道らしき痕跡があり、これが背後の山の尾根に通じているものと推考される。尾根を越えれば逗子ハイランドの住宅地であり、かつて入り組んだ尾根筋に古道が巡っていた。
本谷戸と東の支谷戸の間に位置するもう一つの小谷戸は、現在では畑地とされており、その奥には植林の痕跡が窺えるも、藪化が進んで人の立ち入るを拒むような状態である。遠目にはなだらかな地勢が続いているように見えることから、ここにもかつては武家の屋敷が、あるいは下働きの百姓の住まいがあり、農地があり、奥には寺院があったと推考される。
本谷戸西側の支谷戸は段々畑のように平地が続いて自然ふれあい公園のような施設ができており、坂道が急になるところで石段に変わり、その上は山の斜面を切り拓いた段々畑と呼ぶに相応しい環境である。ここを古くからお猿畠と呼んでいる。
鎌倉時代、迫害された日蓮上人が鎌倉から逃げ出す際、白猿に助けられたという伝説からの呼称だ。さらに畑地の上部は、高さ数メートルほどだが容易には登れそうもない垂直に切り立つ人工の崖が三百メートルに亘って続いている。これが近世には鎌倉石の石切り場とされた大切岸である。谷戸の段状の平地には日蓮に関わる寺の小庵が、あるいは禅宗の小さな塔頭が営まれていたのかもしれない。お猿畠は法性寺に通じている。
現在、本谷戸を最奥部へと進むことはできない。谷戸の中ほどに一軒の人家があるも、その背後は藪がひどく、容易に谷を奥へと進めない。山襞に遺されている尾根に向かう小道を辿って谷戸の奥へ進むことを試みたが、途中で東の支谷戸へ逸れ、尾根筋に設けられたハイキングコースへと出てしまった。
そこで、逆に法性寺の西に位置する名越の切通しから尾根伝いに谷戸の最奥地を目指すことを試みた。現在、谷戸の西側にある切岸上の尾根筋はハイキングコースとされているが、切岸と連続した谷戸であるため、山際は急峻であることから、尾根からの探索は進入路を間違えると頗る危険である。
谷戸の最奥部を見下ろす山頂は、ハイキングコース上で小道が続き、さらに谷戸を囲むように続く尾根筋には踏み分け道が続いている。現在では生い茂る木々によって全周囲を見通すことが不可能だが、山頂からはかなり遠方まで目を光らせることができそうだ。谷戸の屋敷を守るための見張り台としての機能は充分である。この山頂を基点として、尾根を下りながら谷戸へ辿れそうな踏み別け道を探ると、本谷戸の人家辺りから連続していると思われる石段の存在が確認された。一部は崩れており、足場は不安定だが、石垣もあり、急峻な谷戸の最奥地に幾つかの階段状平地が構成されているのである。
石段を辿り谷戸の上部を目指すと、左右三十メートルほどの山肌を開削していたと考察される平地に出た。ここが谷戸としてのほぼ最奥部である。木々や笹が茂り、石造物の一部は倒れている。急斜面に構築された平地であるため、回廊のような足場は幅が二~五メートルほど。大きく掘り込まれた壁面を観察すると、石切り場であったことが判る。切岸に連続する位置にあることから上質の石材が採取されていたのであろう。
切り削がれた足元を見下ろすと、この平場の下にはヤグラが点在していることがかろうじて判る。高さは数メートルほど。木々を伝って急斜面を下りると、平地には二メートルほどの崩れ落ちた岩があり、鎌倉石の脆弱さが良く理解できる。見上げると、先ほど立っていた場所が宙に突き出しており、いつ崩れてもおかしくないような、危険な状態である。脆弱であるが故に、切り開かれた崖の岩を抱き込むように木々が茂っており、太い木の根が岩肌から露出している。
この平地から更に下へと石段が続いており、全体が藪地で見渡すことはできないものの、階段状の平地が左右に幾層もあり、それぞれに石段が続いているように感じられる。谷戸の最奥部に近いところは平地の面積が小さく、降るに従い大きな場を構成している。だが、石段は深く茂った笹によって行き来ができなくなっている。藪で見えないが、ヤグラが構築されているのであろう。
山頂に戻り、東側の尾根筋を降ることにした。地図では谷戸の東に広がるハイランドの住宅街に至るようだが、谷に向かっている小さな踏み別け道を辿り降ると、尾根筋のコースとは異なって人の踏み入る機会が少ないのか藪化が進み、道が消えかかっている。途中の崖には崩れかかったヤグラがあり、かつてはこの谷も活用されていたことが判る。本谷戸の東隣の谷戸に通じているのであろう。だが谷筋は藪がひどくて進めず、谷を下ることを断念。辛うじて残る踏み分け道は再び登りとなって小尾根を越え、最後は山際の急坂を転がるように降り、最初に立ち入った東端の支谷戸に出た。
宅地化があまり進んでおらず、また比較的見通しが良く、谷戸本来の地勢が良く理解できるこの谷戸を、鎌倉市街地にある谷戸の代理体験として歩いたことになった。鎌倉の谷戸の多くは同様の地勢であると思われるが、現在は最奥部まで宅地化されているところが多い。
お猿畠
谷戸の奥に遺る石段
最近再びここを訪れたが藪がひどく辿り着けなかった