季節がら、Webにはヒガンバナの写真が溢れている。
だから絶対撮らないぞ、と思っていたが、綺麗だったのでつい撮ってしまった。
この辺りが谷戸の中心部で、現在は湿地。
目の前に稲が植えられているが、手入れはされていないようで、雑草がひどい。
本来の谷戸にはこのよう橋もなければ整備された池もなく、ただ水田が広がっていただろう。
この隣の川名の谷戸が比較的原形を遺している。
撮影者の背後には溜池がある。
季節がら、Webにはヒガンバナの写真が溢れている。
だから絶対撮らないぞ、と思っていたが、綺麗だったのでつい撮ってしまった。
この辺りが谷戸の中心部で、現在は湿地。
目の前に稲が植えられているが、手入れはされていないようで、雑草がひどい。
本来の谷戸にはこのよう橋もなければ整備された池もなく、ただ水田が広がっていただろう。
この隣の川名の谷戸が比較的原形を遺している。
撮影者の背後には溜池がある。
鎌倉の北西辺りというと、化粧坂の切り通しから葛原岡、台を経て天神山あるいは洲崎で平地に出る。
鎌倉を取り巻く山襞は複雑に出入りしながら南へと続いている。
さて、鎌倉の西はどうだろう。
笛田、梶原辺りからまっすぐ西へと向かう平地があり、手広、川名と田園地帯が続き、境川(すぐ上流で大船からの柏尾川が合流)を渡ると藤沢だ。
西から鎌倉を目指してきた人々は、この境川を越えたところで南へと連なる丘陵地帯に出会う。
単なる岡ではない。
山際が掘削されて、切岸とされている。
即ち高さ20メートルほどの壁が江の島近くまで続いているのだ。
その北端部に、新林公園がある。
谷戸を整備し、古い家を移築して、江戸時代の農村風景を再現している。
ちょっと違うのは、綺麗な池や庭園だろう。
遊具を備えた平場もある。これらは興ざめだが、まあいい。
上の写真は、谷戸を構成する山襞の上。即ち切岸の上からの眺め。
今は展望台とされているが、おそらくその昔も監視のための施設が置かれていたと思う。
この西はずっと平地で、藤沢のかなり先まで見渡せるのだ。
この下に幾段かの平場がある。
ここに武家の屋敷があって良いだろうと普通に考える。
名越の切り通しを経て鎌倉に入ろうとした人々は、この切り通しを前にして、掘削され切断された山際に圧倒されること間違いない。
さほど険しくもないのだが、覆いかぶさってくるような構造だ。
夏場は木々や藪草が茂っているため判りにくいが、この上に平場が設けられている。
朝比奈の切り通しでも、大仏坂の切り通しでも、比較的よく遺されている切り通し眺めると、迫りくるものがある。
意図してのものであろう。
単に通行するための掘削道ではない。
撮影者の背後はすぐに亀が岡の住宅地。
どこまで切り通しが続いていたのだろう。
横須賀線を見ながら久木へと降ってゆく坂道が古道であろうか、今になってはその面影も探せない。
ああ、草木が多くて見えない。冬にまた来よう。
まんだら堂ヤグラ群は春と秋に公開される。現在は閉じられている。
その逗子側に、切り通しらしい隘路が遺されている。
名越の切り通しというと、まずここの写真が出てくるので、おおよその様子は、Web上のいくつかの写真を参考にしてもらえればいい。
ただし、この狭い通路だけが切り通しではない。
切り通しを挟むように、この上に道を見下ろす平場がある。
度々説明しているが、このように切り通しを見下ろすことのできる場が必ず設けられているのだ。
切り通しを造った目的はここにある。
さらに言うと、この写真の右手10メートルほどで山がおわって急斜面になる。
山際を掘削して通路を造ったほうが遥かに簡単であるが、敢えて深く掘り込んで隘路を造っているのだ。