名越の切り通しの大町側へ降る辺り。
下草で判りにくいが、写真の右手側に尾根筋への小道がある。
左手に平場が構成されているのは、空が開けていてわかり易い。
この平場からも切り通しを俯瞰することができる。
大仏坂の切り通しも同様だが、道の真ん中に大きな岩が置かれているところがある。
転石であれば除かれるであろう。
この通行に不便な岩については、何らかの意味がありそうに思えるのだが、どうだろう。
名越の切り通しの大町側へ降る辺り。
下草で判りにくいが、写真の右手側に尾根筋への小道がある。
左手に平場が構成されているのは、空が開けていてわかり易い。
この平場からも切り通しを俯瞰することができる。
大仏坂の切り通しも同様だが、道の真ん中に大きな岩が置かれているところがある。
転石であれば除かれるであろう。
この通行に不便な岩については、何らかの意味がありそうに思えるのだが、どうだろう。
名越切り通しの「まんだら堂やぐら群」は、刑死したものを葬った場のように感じられて恐ろし気だ。
化粧坂切り通しのある葛原岡も同様に、鎌倉の入口には刑場が置かれていた。
人の集まる場であり、否応なしに人の目につく場である。
一方で、市も立っていたであろうと思われる。
化粧坂の場合には、その名の通りに遊女もいた。
名越の切り通しはどうだったのだろう。
写真は、先の平場の上の尾根道を西に向かう辺り。
現在は旧道も藪化が進んで、季節を選ばないと行き来ができない状態。
20年ほど前には尾根道を歩くことができたのだが、今では倒木もあって冬場でも歩けないだろう。
前回紹介した切り通しの上の平場は、夏にはこんな感じ。藪で平場も何もわからない。
ようやく名越の切り通しをのぼってきた。
数日前に、名越の切り通しの大町側(鎌倉側)の、現在の道が、明治初期の地図に描かれておらず、代りに切り通しの峠辺りから尾根筋へと道を変え、そのまま尾根を経て後に斜面を下っていることから、現在の大町側の切り通しは古いそれではないと結論する人たちがいる。と述べた。
確かに、横須賀線のトンネルを通すにあたって、切り通し裾の旧道は失われたと思う。
だが、逗子方面から山道を経て道なりに進んできて、突然尾根筋へと道を変えるだろうか。
しかも、切り通しを見下ろすような位置にある平場の、さらに上に重要な街道を設けるだろうか。
写真は、現在の切り通しの、大町側の坂道の上にある平場。
撮影者の背後に、明治初期の地図に描かれている道がある。
この平場から、切り通しの道を見下ろすことができる。即ち平場としての機能が活きてくるのだ。
名越の切り通しの大町側旧道は、現在の急坂を経、その下はトンネル工事によって失われたと思われる。
だから、現在ある道の峠寄りの途中まで古道と考えてよい。
夏場は草木が茂って平場の様子が分からない。まだ藪化していない頃に撮ったもの。