Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

すべての人々のために祈る 礼拝メッセージ

2023年05月14日 | 日記
本日は、「すべての人々のために祈る」と題して テモテへの手紙Ⅰよりメッセージをさせていただきます。
まずテモテとはだれかということについて説明いたします。使徒パウロがルステラという町に伝道旅行に立ち寄った時に、ギリシャ人の父とキリスト信徒でユダヤ人の母とを両親に持つテモテを弟子として、一緒に伝道旅行に連れていくことにしたと使徒言行録に記されています(使徒16:1~3)。テモテは、パウロが宣教旅行の同労者として信頼し、また小アジアの教会の牧会を任した人で、彼はパウロの最後に至るまで忠実にパウロと信仰の交わりを持っていたようです。パウロは自分が訪問できないテサロニケの町へ、代わりに「キリストの福音のために働く神の協力者テモテ」として派遣したり(テサロニケⅠ3:1-3)、パウロが記したとされる6つの手紙の共同の差出人として、テモテの名が記され(テサロニケⅠ、Ⅱ、コリントⅡ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)、無名の著者によるヘブライ人への手紙の結びには「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。」とあり、彼もキリストの福音のために牢獄に入れられていたようです。テモテはパウロの代理として、小アジアの教会の責任ある指導的地位についていた弟子で、下記のみことばのようにパウロに励まされていました。
プロジェクター
「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」テモテⅡ4:5

そのテモテ宛にパウロがどのように教会を牧会していくかを手紙で記しそのなかで、まず第一の勧めとして記されているのが、すべての人々のために祈ることです。他者のために祈ること(執り成しの祈りと言われます)が、そのことが祈る私たち自身にとっても良いことであり、そのことを神様が喜ばれることであると記されています。

すべての人々のために祈りなさいとあり、続いて「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」 では具体的に、何を王や高官といって現代でいう政治家達のために祈るのでしょうか。自分の属する国のために良い政治をするように祈ること、世界を視野に入れた場合、今でしたら、ある国が他国へ武力を持って侵略している場合、その政治家が侵略をやめるように祈ることなど、祈ることはたくさんあります。しかし、各国民が自国の利益のために祈ると、他国の利益を損なうという利害関係が生じる場合、神様はどの国の利害を優先されるのでしょうか。世界の平和は、各国の利害が対立すると成り立たず、それを国連やG7や首脳会議で話し合いで解決しようと試みてきています。また国内においても、権利の主張は立場が違えば異なり、たとえば高所得のAさんの要求は、低所得Bさんにとっては不利益になる、また男女によって、こうしほしいという要望の違いがあり、ジェンダー平等が今問題としてあげられています。高齢者のために国政が税金を使えば、若い世代のための政策がおろそかになり、結果出生率が下がり少子化となります。つまり立場が異なると要求が異なりますが、限られた財源ですべての人が豊かになる政治の実現は困難です。社会でだれかが犠牲になってしまう。すべての人が一斉に神様に自分のために祈るとどうなるでしょうか。

このように具体的な政策レベルで政治家のために祈るということももちろん必要ですが、まずは彼らが救われること、悔い改めて、真理を知ることを祈ることが大切であります。なぜなら、神様がそう望んでおられるからです。「すべての人々」と言ったら、私たちから見ての悪い人も含まれます。神様は悪人が死ぬのを喜ばず、悔い改めることを喜ぶとエゼキエル書に記されているからです。

プロジェクター
「むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」エゼキエル書33:10

そして、この神様の御心をもとに、神様はご計画を立てられました。すべての人が救われるようにと、イエス・キリストがすべての人の贖いとして、ご自身を十字架で献げられたからです。

プロジェクター
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  マタイ20:28

とイエス様が言われたことはまさにこのことです。イエス様が私たちの罪の贖いとして、代わりに十字架でご自身を捧げてくださるという、神様の救いの業がなされたのは、すべての人が立ち返って、イエス様を信じることを神様が望まれているからであって、信じないで滅んでしまうことを望んでおられないからです。そこまでして、この世(世とは人類全体)を神様は愛してくださっているということは下記のみことばが示す通りです。

プロジェクター
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」 ヨハネによる福音書3:16-17

政治家たちが、御子イエス様を信じ、救われることに関しては人間同士の利害関係につながりません。信仰が与えられた政治家は、もちろんその人だけが政策の決定権があるわけではないのですが、おのずとキリストの教えを念頭に政治的決断をし、周りに影響力を及ぼすはずです。ましてや、その国のトップの政治家が悔い改めれば、例えば侵略戦争をしていたら、辞めることが可能でしょう。パウロが、テモテという教会のリーダーに、教会というコミュニティで何を祈っていくか、すべての人の救いのために祈る、特に政治家たちの救いのためにまずは祈っていこうという勧めは、現代に生きる私たちには共通に示されていると思います。神の言葉は生きていて、過去にだけ当てはまるものではないからです。政治家たちが救われれば、結果的に、人々が「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」を送れる社会的状況に変わっていけるでしょう。すべての人が救われることを祈ること、これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることであるからです。

私たちは、社会的には小さな弱い立場であるかもしれません。しかし、憐みと恵により信仰を先に与えられたものとして、まだキリストの福音を知らない多くの人々、それも政治家も自分の国以外の人々、自分の嫌いな人々を含むすべての人という、神様の視点をいつも覚えて、その人たちのために祈ることはできます。そして私たちの祈りの力ではなく、祈りを聞いてくださる神様に力があり、全世界を治めることができる神様に期待して、すぐに聞かれなくても祈り続けることが大切だと思います。そして、神様のキリストを通してすでにしてくださった救いの御業をどんな時でも、今の状況が悪くとも、感謝することを覚えているかどうかがここで問われているのではないでしょうか。この執り成しの祈りは、牧師・教師だけではなく、すべての信徒、つまり教会全体に神が望んでおられることです。

直接、福音を相手に語れなくとも、執り成しの祈りはいつでも、誰に対しても出来るからです。福音の伝え方にはその人に置かれた立場、状況に応じて様々な方法があるでしょう。皆が皆、口で告げ知らせられなくとも、行いと態度でもキリストの愛を示すこともできます。それには「争わず、寛容で、すべての人にこころから 優しく接する」ことも含め、2節の「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」をそれが完璧にできなくともそう心掛けていれば、未信者の人に「あの人はこんなひどい状況であっても、なぜ落ち着いていられるのか?」と良い意味での疑問を持たせ、実際に「なぜ?」聞かれた時に、自分の信仰を証するチャンスとなります。

ある会社の経営者が、バブルの崩壊後、倒産の危機となり、日々ストレスと心配で眠ず、精神的に参っていました。その会社の役員でクリスチャンの人が財務を担当し、資金繰りや銀行との交渉を担当していたのですが、こんな状況であってもその人は普通に仕事を続けていました。そこで、経営者がその役員に「あなたはなぜこんな状況で平気でいられるのか?」と尋ねると、「わたしはクリスチャンですから、神様にお任せしています」と一言答えると、「わたしのために、祈ってください」とその経営者が言ったそうです。

こうように、社会生活の中で、ピンチの時の平穏な態度はキリストに習うものであり、神が喜ばれることであり、そして人に良い証となり、福音を伝えるチャンスにもなるわけです。この経営者がこの後どうなったかはわかりません。ただ私たちすることは、福音の種まきであり、そのあとのことは神様にお任せしてよいのです。

私たちの自分の性格や力で「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」をしようと思っても、限界を感じ、出来ない自分にストレスを感じてしまいます。たとえできていなくとも、私たちが霊的に成長していくよう、神様は忍耐を持って、私たちを支え導いてくださるお方です。そして、5節にあるようにイエス様が神様と私たちとの唯一の仲介者でおられ、私たちの祈りをとりなして下さります。イエス様のおかげで、すでに神様との和解が与えられるという救いの恵みについては、いつでも感謝できることですし、私たちの行いの有無、信仰の強弱でその救いは取り消されることはありません。現実的に、世の中的にも先行きが見えず、不安な要素に目を留めると心配になります。また人間関係の修復も容易なことではありません。しかし、私たちは大きな励ましと慰めのみことばが与えられています。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」コリント信徒への手紙1 14:7-9

私たちは主のものです。つまり主なる神様の守りのなかに置かれていています。もし、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、わたしたちは主のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、先ほどの例話のように、「祈ってお任せしよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。その信仰を基盤にすると、自分のためだけでなく、他者のためすべての人のために祈ろうと導かれます。そのことが神の御前に良いこと、喜ばれることであります。ですから日々みことばの糧を心に蓄え、聖霊が私たちの心に働きかけてくださるよう意識して求め、日々神様に祈っていきましょう。

親子関係

2023年05月03日 | 日記
 今年は、花々の開花が1-2週間早まる程、早い春の訪れとなりました。先日、藤の花で有名なあしかがフラワーパークというところへ母を連れて行く機会があり、雨でしたが、長時間の歩行が難しくなってきた母を夫が車いすに乗せて園内を周り、壮大な藤棚の美しさに母も驚き、喜んでいました。もっと若い時から、両親をあちこちへ連れていけばよかったと今頃悔やまれます。一方、親というのは、子である私が旅行に連れていかなくとも、優秀でなくとも、親の期待に添わない人生を歩んだとしても、親のほうから見捨てることがなく、忍耐を持って見守り、必要な時に助けてくれます。なぜなら、親だからです。個人差はあっても親は子を愛し、大切に思う。子は親を頼る。このような親子関係つまり血縁は切れない強い絆です。「縁を切る」と言われますが、実際親子関係は変えられない事実であり、連絡を絶つことはできても親子という縁は切れません。

 聖書の神様は人間の親子関係のように、私たち人間と人格的な関係を持とうとされていることが記されています。その顕著な表現が「父なる神」です。実際、神に人間のような性別があるのか?というと、ないはずです。性別というのは被造物が持つ性質で、すべての創造主である神は性別を超越された存在であるはずだからです。しかしイエス様も「父よ」と天の父なる神様を呼び、イエス様は「子なるキリスト」と記され、父と子という関係で記されていますから、私たちは聖書が記すとおりに理解し、信じています。一方で、神様を現わすときに母性的な表現の箇所も聖書にはいくつかあり、下記のみことばがそうです。母がその子を忘れないように(忘れることはありえるがと、人間の弱さ、限界も示したうえで)、わたし(主、神様)はあなたを忘れることは決してないと。そして、子供は親を信頼し、従い、尊敬するという面があります。このように、神様を信じるということは、最高で完璧な親がいたとしたら、その親との親子関係を持つことにたとえられるのではないでしょうか。

「関係」には双方向的なコミュニケーションと体験が伴います。私は「父なる神様」と祈る時、「神様は私を守り、導き、愛してくださる方」という思いを前提に祈ります。そして、その祈りが聞かれることで、「ああ本当に、神様は生きていて、働かれている」と実感できることは幸いです。まだ、私が祈ってないことでも「最善の道に導いてくださっていた」と、後から振り返ってわかることもあります。つまり、私の信仰の状態にかかわらず、祈る祈らないにかかわらず、いつも私をケアし、配慮していてくれるという安心感が与えられていることは感謝です。

 私たちの社会では悲しいことに、親からの愛を受けることができずに、自身の子をどう愛してよいかわからず傷つけてしまうという、「負の連鎖」をひきずる親子関係が現実にあります。しかし、たとえ自分の親が良い親でなくて、親子関係でトラウマがある人であっても、最高の父である天の父なる神様がいることをその御子イエス・キリストを通して知り、その神を信頼することが誰でも可能です。一人でも多くの方が、この神様の愛を知って、癒されてほしいと願います。その神様を「知る」ためには、聖霊が知ろうと求める人の理性に、心に働きかけ、一人一人と親しい関係を持とうと望んでおられるキリストを、そして神様を「知る」、「体験する」ように導かれるはずです。シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」 イザヤ書49:14-15

(引用 新共同訳聖書)

約束を守る

2023年04月23日 | 日記
 約束は守られるものでしょうか。「では、今度それをお渡します」と仕事上なされた約束は、支払いが伴うので期日までになされ、約束が守られるということはあります。では、支払いのない家庭内ではどうでしょうか。親が子どもにした約束、例えばどこかに家族で出かけるという約束が、親の都合でなされないこともあります。また、大人同士でも支払いを伴わない約束、つまりボランティア的な好意で何かを相手にしてあげるという口約束がなされた場合、それが必ずなされるでしょうか。私は経験上、特にお忙しい方は残念ながら「口だけ」の方もいるということを知り、そしてあまり期待しないようにしています。なぜなら、忙しい相手に時間をさいて、好意を要求できないですし、もしして下さったら有難いと感謝するという程度にしています。

 一方、キリスト教の神様は人と約束をされる方(契約を結ばれる方)であり、人と異なり、約束は必ず守られる方であります。約束の内容は、神様が恵み深いことを示しています。どのように守られているかが分かるかというと、神様の約束はキリストを通して私たち人間を罪から救うという内容で、それがイエス・キリストが人となってこの世に来られ、十字架に架かられて死んで3日後によみがえったことにより約束が果たされています。またその他のたくさん神様の約束、例えば神様は祈ったことは必ず聞かれる、祝福と平安を与える、守って下さるという約束が聖書に記されていて、これも先に信仰を持った人たちの経験からその約束が果たされてきたことが聖書に示されており、神が真実であることを知ります。そして彼らと同じ経験が、時代を超えて今に生きる自分にも当てはまるということを「知って」神様に委ねる、それが神に対する信仰であると思います。

 「知る」とは自分が神様の約束の成就を体験して「ああ、神様は今も生きていて、本当なのだ」と納得し、神様に対する信頼が増す、つまり信仰が強められていくというものではないでしょうか。宗教改革者のルターさんは「信仰とは、約束する神を信頼することとほぼ同じこと」と言っています。神は存在するという単なる科学的、哲学的存在証明だけでは人は神を信じることは困難でしょう。信じることは、神との人格的な関係であり、神が真実であることを体験的に知る必要があり、そこには神の霊(聖霊)がその人の理性と思いに働きかけるという面があると言われています。そしてその聖霊は求める人の心に与えられるというのも神様の約束の一つです* 。求めれば必ず与えられ、そして信仰に導かれる、すべて神様から頂けるというのはなんと幸いでしょうか。

「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方(キリスト)を通して「アーメン」(そのとおり)と唱えます。」 コリントの信徒への手紙2  1章20節  ()は追記
(引用 新共同訳聖書)

*ルカによる福音書22章9-13節 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

イースターエッグ

2023年04月11日 | 日記
 イースターエッグ。キリスト教の文化を持たない日本であっても、ここ数年にディズニーランド等で導入されているイースター・イベントの影響なのでしょうか、一般の人々向けに様々なイースターグッズが販売されています。キリスト教文化を持つ西洋では、イースター(キリストの復活をお祝いする日)に、子供向けに「エッグハンティング」といって、飾りつけをしたゆで卵(イースターエッグ)を教会の庭等に隠して、それを子供たちが籠を持って探す遊びを行い、イースターバニーというウサギのぬいぐるみがプレゼンされています。元来、卵やひよこ、うさぎというイメージはキリストの復活という聖書由来でなく、キリスト教以外の春の豊潤のお祭りが由来していると言われています。

 クリスチャンにとって、イースターはクリスマス以上に重要なイベントです。本当は、この日だけでなく、日々、キリストが復活されたことを覚えている必要があると思います。しかし、キリストの復活が私たち個人の生活と何の関係があるのかを知らなければ、また知ってそれを信じなければ、イースターはただの子供向けの行事になってしまいます。一方、子どもというのは言われたことを素直に吸収するという面があります。益子教会でもイースターエッグを用いて、牧師がイースターの意味を子どもに説明しようと、「この卵はなんの意味か知っていますか?」と4歳の子に質問しました。するとまだ説明されていないのに、「永遠の命」とポツリと答えたのに、一同驚かされました。おそらく前に、聞いいた言葉を覚えていたのでしょう。

「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」とイエスが下記の箇所でも言われたように、この霊的な新生は、肉体的に再び母の胎から生まれることを意味するものではありません。キリストの復活は、キリストを信じる者が今生きている世界にて内面的に「新しく生まれる」ことが確証される出来事であり、同時に、将来自分の肉体が死んだ後、よみがえることを信じる信仰が与えられます。このように、キリストの十字架の死と復活により、そのことを信じるものに永遠の命が与えられるようにと、神様が計画してくださったのです。このイースターの良い知らせ(ゴスペル)を一人でも多くの方に伝えたいと思います。
 
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。…モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 ヨハネによる福音書4章3.15節 (新共同訳聖書)

アイデンティティ

2023年04月06日 | 日記
 先日、地域のある会主催の勉強会に参加しました。お題は「人間と国家」で大学の先生を講師に招いて、日本という国の現状:安全保障や他国との関係、軍事についてお話を聞く機会が持てました。このような内容は普段の生活ではあまり話題にならない、先生いわく「日々の生活が忙しくて考えるのがおっくうになる」話題で、真剣に議論される場があまりなく見過ごされ、気が付くと法案が可決していて、いつでも戦争を行使できるように平和憲法が空洞化されつつあるという危険をはらむ、とても重要なことだと思わされました。TVで流れる報道はほんの一部であり、ネットで検索をあえてしない限り、これらの情報はなかなか入ってこない事柄です。具体的に何かすぐにできなくとも、まずは現状を「知る」ことが大事だと先生は語っておられました。また、「自分は日本国民である」というアイデンティティのほかに、自分が「何者であるか」という、いわゆるあなたのアイデンティティは何ですかと聞かれました。いくつか持っているのが普通であろう(「文人主義」で言われるような)、という話題にも触れていました。

 私は改めて自分のアイデンティティは、キリスト信徒であることだと思います。私の存在自体が、私が努力して作ったのではなく、偶然に生まれたのでなく、神様が私をこの世に存在するために送ったと信じているからです。信仰とは、通常自分自身が告白して信じることなので、自分で開始したかのように思われがちですが(実際、そういう面もありますが)、聖書によると信仰さえも、プレゼントだとされています*1。信じる心も与えられるということですね。もちろん、人は自由な意志があり、それを拒むこともできるでしょう。私は、日本人であるという意識以上に、神の民であるという意識がメインであり、この世で生きている生活は寄留者であると思っています*2。そうするとある意味、いろいろなことに拘らなくなりました。財産を残すことや自分のお墓もこともあまり考えないですみ、また今は健康ですが、命に係わる病気にかかったとしてもその先があることを信じる信仰で、思い煩い、悲しみが軽減されるでしょう。

 平日仕事の休みが取れる時、茨城県常陸大宮市にある教会で開催されているゴスペル教室に行っています。そこでは、ゴスペル(賛美歌)をただつらつらと歌うのでなく、「もっと、体幹に力を入れて、声を前にだして!」と先生に多くの指導をしていただき、魂の底から、思いを込めてゴスペルを歌うことを習っています。歌詞にこめられている神様のすばらしさをたたえ、神様が主イエス・キリストを通して私にしてくださった救いのみ業を感謝して歌っていると、本当になんとも言えない喜びと平安な気持ちに包まれる時であります。この社会で生きる上で、同時に多くのことを考えなければならないですが、それでも私は実に「神様を賛美するために存在する自分」というアイデンティティが、生活のなかにおいても、広がってほしいと願っています。そして、下記のみことばにあるように、たとえ私が賛美出来なくとも、天と地にある自然そのものが、つねに神様の御業を示すでしょう。

天は神の栄光を物語り   大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え   夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく  声は聞こえなくても
その響きは全地に  その言葉は世界の果てに向かう。   詩編19編2-5節


*1「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」 エフェソ信徒への手紙2:8-9 (新共同訳聖書)
*2 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」へブル人への手紙11:13 (口語訳聖書)