毎週土曜日に、益子教会では礼拝に参加される高齢の方を車で迎えに行きます。いつもの時間、いつもの場所(その方の家の前)で待っていましたが、その方が出てこないので、家に電話してみても応答なし。今日はお休みなのかと戻ると、一時間後にその方から「今日はどうして迎えに来られないのか、何かあったのですか」と電話が来ました。その方には申し訳なかったのですが、何故かお互いが「見えなかった」のです。私たちの生活の中で、視力は見えているのに見えないことがあります。例えば目の前にあっても、「ない、ない」と探し物をしたりすることはないでしょうか。また「思い込み」という精神的な要素も加わると、探し物が見つからず、お互い会えない時があります。いずれにしても次回からは、出る前に電話して確認したほうがよいでしょう。
イエス様はある時、生まれつき目の見えない人の目を見えるように癒されました。この人は他の人のケースと異なり、自分から「目を見えるようにしてください」とイエス様に頼んだのではなく、イエス様の弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という質問に対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」*1と言って癒されました。弟子たちの質問はこの当時のユダヤの人々の考え方であり、おそらくどの国もどの時代も、生まれつきもしくは途中で病気や不自由な体になると、「バチがあたったのだ」「行いが悪いからだ」と、思う人はいるかもしれません。酷い場合には「あなたの先祖の罪があるからこうなったのだ、だからそれを償うためにこの壺を買いなさい」といって、高額なお金を支払わせるカルト宗教の霊感商法につながります。
聖書では、その人の罪はその人自身のことであるとして*2、また何か身体に障がいがあることイコール因果応報に結びつけません。そんな負い目に縛られる必要はないのです。ではイエス様が言われた「神の業がこの人に現れるためである。」とはどういう意味でしょうか。この人の場合は神様の奇跡の業がなされる、生まれつき目が見えない人の視力を回復されるということです。つまりこの人の目が見えていたら、この人はイエス様に出会うことはなく、驚くべき奇跡も経験することもなかったかもしれませんし、神様の超自然的な力による業が人々の前に現されることはなかったでしょう。
一方、この時代も、現代の医学を持ってしても治らない病気もあり、すべての人がイエス様にお願いしたら癒されるわけではありません。しかし、神様の業は私たちにとって「良い」と思うことだけに現わされるのではなく、むしろ私たちが「良くない事、不自由なこと、弱さを覚えること、不幸だと思える状況」においても現わされます。つまり、病気が治らなくとも、その病を通してその人の信仰が強められたり、たとえその人が皆の必死の祈りにも関わらず亡くなったとしても、周りの人々に予期せぬ良い影響を及ぼすことがあります。それらすべて神様の業が現わされると言えるでしょう。
重要なことは、身体的な目より、その人の心の目が見えるようになること、つまりイエス・キリストを信じる信仰を持てることだと思います。この体はどんなに健康であってもいつかは衰え、寿命がきます。また人それぞれに、何かに対する負い目やしがらみに縛られて心が不自由な状態にいるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いで、私たちのすべての罪は赦されて負い目を感じる必要はなく、縛られている心は解放されます。これは、自分の罪を自覚し、神様の前に悔い改めるところから始まります。人の魂・霊は永遠に続き、つまり心と心の目も続くとなりますと、このキリストに示される神様の愛を信じる信仰が与えられることは幸いです。将来のこと、死んだ後の事を心配する必要はなく、今生きている間のことも、たとえ辛い状況であっても、自分の弱さの中にあっても、神様の業が働かれるだろうと期待することができる、このような希望を持って日々生活できるからです。それぞれが置かれた状況において、神様の業がどのように現れるだろうか、キリストの力が私の弱さの中にどのようにあらわされるだろうかと期待して、恵みによって与えられている自由を感謝していきたいと思います。
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリント信徒への手紙2 12章9節
*1 ヨハネによる福音書9章2-4節参照
*2 エゼキエル書18章14-20節参照
イエス様はある時、生まれつき目の見えない人の目を見えるように癒されました。この人は他の人のケースと異なり、自分から「目を見えるようにしてください」とイエス様に頼んだのではなく、イエス様の弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という質問に対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」*1と言って癒されました。弟子たちの質問はこの当時のユダヤの人々の考え方であり、おそらくどの国もどの時代も、生まれつきもしくは途中で病気や不自由な体になると、「バチがあたったのだ」「行いが悪いからだ」と、思う人はいるかもしれません。酷い場合には「あなたの先祖の罪があるからこうなったのだ、だからそれを償うためにこの壺を買いなさい」といって、高額なお金を支払わせるカルト宗教の霊感商法につながります。
聖書では、その人の罪はその人自身のことであるとして*2、また何か身体に障がいがあることイコール因果応報に結びつけません。そんな負い目に縛られる必要はないのです。ではイエス様が言われた「神の業がこの人に現れるためである。」とはどういう意味でしょうか。この人の場合は神様の奇跡の業がなされる、生まれつき目が見えない人の視力を回復されるということです。つまりこの人の目が見えていたら、この人はイエス様に出会うことはなく、驚くべき奇跡も経験することもなかったかもしれませんし、神様の超自然的な力による業が人々の前に現されることはなかったでしょう。
一方、この時代も、現代の医学を持ってしても治らない病気もあり、すべての人がイエス様にお願いしたら癒されるわけではありません。しかし、神様の業は私たちにとって「良い」と思うことだけに現わされるのではなく、むしろ私たちが「良くない事、不自由なこと、弱さを覚えること、不幸だと思える状況」においても現わされます。つまり、病気が治らなくとも、その病を通してその人の信仰が強められたり、たとえその人が皆の必死の祈りにも関わらず亡くなったとしても、周りの人々に予期せぬ良い影響を及ぼすことがあります。それらすべて神様の業が現わされると言えるでしょう。
重要なことは、身体的な目より、その人の心の目が見えるようになること、つまりイエス・キリストを信じる信仰を持てることだと思います。この体はどんなに健康であってもいつかは衰え、寿命がきます。また人それぞれに、何かに対する負い目やしがらみに縛られて心が不自由な状態にいるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いで、私たちのすべての罪は赦されて負い目を感じる必要はなく、縛られている心は解放されます。これは、自分の罪を自覚し、神様の前に悔い改めるところから始まります。人の魂・霊は永遠に続き、つまり心と心の目も続くとなりますと、このキリストに示される神様の愛を信じる信仰が与えられることは幸いです。将来のこと、死んだ後の事を心配する必要はなく、今生きている間のことも、たとえ辛い状況であっても、自分の弱さの中にあっても、神様の業が働かれるだろうと期待することができる、このような希望を持って日々生活できるからです。それぞれが置かれた状況において、神様の業がどのように現れるだろうか、キリストの力が私の弱さの中にどのようにあらわされるだろうかと期待して、恵みによって与えられている自由を感謝していきたいと思います。
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリント信徒への手紙2 12章9節
*1 ヨハネによる福音書9章2-4節参照
*2 エゼキエル書18章14-20節参照