Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

時間の表現: 永遠

2022年06月26日 | 日記
 今年は梅雨を通り越し夏が訪れたかのような、早くも猛暑の日が続いています。私たちは季節の移り変わりを通して一月を、一年を5感で認識します。一方、私たちが意識する・しないに関わらず時は刻々と過ぎていきます。未来がどうなるか予測はつきませんが、必ず予測できることは、夕が来て朝が来ることです。時の流れの中で、今、していることが次の瞬間過去の出来事になります。しかし私たちの活動の中で、一つだけ過去にならずに、続いていることがあります。それは、生きるという活動で、私たちの体は生命が与えられてから死ぬまで、心臓は止まることなく動き続けています(病気で一時的に止まる人もいますが)。人が寝ている間も、体の臓器の動きは続いていると思うと、100歳以上長生きしている方々は凄いと思わされます。しかし、いつかはこの体の活動は停止する、それを死と言いますが、私たちはその死がいつ自分に訪れるのかはわかりません。明日がくるのは確実ですが、その明日に自分が生き続けているかはわかりません。

聖書には「永遠」ということばが出てきます。この永遠という言葉は時間の流れでいうと、点ではなく、線がずっと続くというイメージでしょうか。キリストを信じる者は、神様がキリストを通して与える「永遠の命」を信じて、この世の生活を続けています。この体が死んだら私という存在が「過去」になるのではなく、その後も魂が存在し続ける、そのことを信じているからです。ただ、どのように魂が存在し続けるのかが問題となります。もし、体がなくなり、自分という存在が生前と変わらない性格のままで、魂だけがふらふらとこの世に目に見えなくとも存在し続けるのであれば、私は個人的にそんな形で永遠に存在したくないと思います。今の体のままで、つまり私の罪ある性質のままで、またいつになっても戦争が終わらない不条理が多いこの世で永遠に生きなければならないのであれば、それこそ永遠の苦しみです。

 下記のみことばのように、天の父なる神様が、弁護者を一人一人に与えてくれて、永遠にわたしたちと一緒にいるようにしてくれると記されています。つまり、私という存在は変わらなくとも、真理の霊(聖霊)がともにいて、心の内側に住んでくれるというのですから、そうであれば永遠に存在したいと願うのです。「私」という存在はあるけれども、神様が送ってくださる聖霊がともいてくれるのであれが心強く、永遠に生きようと希望が湧きます。聖霊によって神様の思いを知り、神様の愛が注がれるよう願い、様々な状況で忍耐する力が与えられるのは幸いなことです。「弁護者」と訳されていることばは「ヘルパー」とも訳されるように、助けてくれる存在がともにいるというのはなんと幸いなことでしょうか。

 ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

  「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

         悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」*

 心が貧しい、悲しい という状況は普通で考えれば幸いな状況ではありません。しかし、キリストを信じ、聖霊が心に与えられて、その聖霊の助けを日々求める者は、心が貧しい、つまり心が破綻するほど苦しい、辛い、悲しい状況であっても、神様がともにいて慰め、ヘルパー(弁護者、聖霊)を送ってくれているので、その叫びを神様に訴えることが出来ます。そしてその渦中にいる時は幸いといえなくとも、その過程において慰めや助けが与えられていき、後になってであっても「幸いだ」と感謝が出来るのではないでしょうか。私たちの生活は物価上昇、戦争と世界の分断、コロナ以外の感染症の世界的拡大の脅威、犯罪の増加等不安定な要因は尽きません。しかし、永遠の命が与えられている幸いを覚えて感謝し、日々、聖霊に導かれ、神様に祈り求めていきたいと願います。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 」ヨハネによる福音書14章16-17節 

*マタイによる福音書5章3-4節

(引用 新共同訳聖書)

「新たに生まれる」

2022年06月12日 | 日記
益子教会でのメッセージ
June 12, 2022 「新しく生まれる」  ヨハネによる福音書3章1-17節

ヨハネによる福音書は他の3つの福音書と比較すると、ユニークな点がいくつかあります。使徒ヨハネが晩年書いたとされ、ヨハネはこの福音書を書いた目的を:イエスが神の子メシアであることを信じるため、信じてイエスの名により命をえるため(ヨハネ20:30-31)と記しています。ヨハネによる福音書は特に、知識としてイエス様が神の子で救い主であると信じているにとどまらず、個人的にイエス様を体験して知り、信じるように構成されています。今日の箇所は、キリストの福音宣教で最も重要なこと3章16節が含まれ、これがイエス様とニコデモとの問答からの文脈であることを通しても、もう一度、イエス様に示される神様の愛を深く知り、新たな気づきが与えられことを願います。

まず、ニコデモという人が夜にイエス様を訪問しました。彼は当時のユダヤ人の指導者グループ(パリサイ派)に属していて、彼らの中ではイエス様に対しての排斥が始まっていたので、堂々とイエス様と語ることは困難だったでしょう。しかし、パリサイ人の中にも、イエス様の権威ある教えと奇跡により、神が遣わした方ではないかと思っていた人たちもいました。ニコデモもその一人で、「あなたが神のもとから来られた教師であると(わたしたちは)知っています」と言いました。しかし、イエス様は彼の思惑以上に、彼に突然「新たに生まれる」という話をされます。これは、後に続く、風、竿にあげられた蛇、光と闇の話も併せて、神様の救いについての説明をたとえで話されています。

 3節「新たに生まれなければ神の国へ入れない」についてですが、ニコデモが困惑したように、通常人が生まれるということは生物学的に母の胎から生まれることを連想します。こんな大人がどうやって新たに出産で生まれるのかと思います。この「新たに」という単語(ギリシャ語 アノーテン)は「新しく、再び」と「上から」と二つの意味があるそうです。英語では「ボーン・アゲイン」と訳され、欧米では「ボーン・アゲイン クリスチャン」という言葉があり、この箇所が由来です。実際私がアメリカに住んでいた時、クリスチャンの会話の中で「わたしはボーン・アゲイン クリスチャンです」、「あなたはボーンアゲインしてますか?」と言うのを聞いたことがあります。要は真剣に主イエス・キリストをを信じ、人生が変えられているのかを問うものです。


 この用法の良し悪しは別として、イエス様がニコデモに言われた「新しく生まれる」とはどういうことかを、私たち一人一人が深く考えるべき事柄であると思います。それは「自分はこんなに変えられたのだ!」とその人の変化を強調するよりも(証としてはインパクトあるかもしれないですが)、そもそも、なぜ新しく生まれることが可能になるのか?という根源的なことのほうが強調されるべきだからです。一方「上から生まれる」と訳したら、どうなるかというと、ほかの箇所でもこの語は使われていて(ヨハネ3:31では同じ語が「上から」と訳される)、つまり上とは「神から」の意味となります。いずれにしてもイエス様は霊によって生まれることを話されていますので、両方の意味を含んでいるのかもしれません。

 5-6節イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

「水と霊によって生まれなければ神の国に入れない」の意味はバプテスマを指すと解釈する意見と、人は生まれる時に母の胎内で命が作られ、羊水の中から生まれるので、水からの誕生がまずあり、そして霊によって新しく誕生し神の国に入るととる解釈があります。いずれにしても、肉の体のままでは神の国へ入れないということで パウロも コリント信徒への手紙一15:50でこう記しています。
「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

8節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 イエス様は次に風のたとえで 霊によって新しく生まれることの説明をします。風は目に見えませんが、周りの目に見えるものの動きと、その及ぼす影響で風がそこに存在することが私たちにはわかります。聖霊の働きも同様です。目に見えないのですが、聖霊をうちに持つ人は信じる以前と言動が違うはずです。極端な例ですと、イエス様を信じる前は人の悪口を言う、人の者を盗む、人を傷つけるのが平気だった人がいたとします。信じて聖霊を受けた人はもはやそのようなことはしなくなるはずです。なぜなら内側に聖霊が住み、それはしてはいけないと語り掛け、してしまったら悔い改める気持ちがおこるからです。霊は見えなくとも、その人の人生が前と変わっているということで、周りに霊の働きが分かるものです。また人生や考え方が自分中心から、この世的な見方から神様中心に変えられていきます。その変わり方の速度は人それぞれですが、私たちはその心の変化を意識する、感じるという以前に、キリストを信じた時、聖霊によって新しく生まれ、新たに造りかえられ続けている(現在進行形)ということを信仰で受け止め続ける必要があります。もし、罪を犯してしまっても、それで救いが帳消しにされるというものではありません。すぐに悔い改め、その罪を繰り返さないよう心を変えて下さいと願えば、祈りは聞かれるはずです。霊的成長は時間がかかるもので、信じて一日で人格が変わるというケースはまれではないでしょうか。

 この「風」は霊という意味もあります。(「プネウマ」は二つの意味がある)ちなみにヘブライ語ルアーハも同様の二つの意味があり)霊的な事柄は人間の頭では把握できない、理解が困難であります。科学で証明されるものではないので、霊の存在はあまり信じられず、知識ある人々にはばかばかしいことに思えるのです。第一コリント信徒への手紙一1:18-21 でパウロはこう書いています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 … 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

 私たちがイエス様の十字架を信じることが出来るのは、世の知恵で知るのではなく、聖霊の働きによって信じることができ、それは神の知恵にかなっているのです。救いに関することは、この世の知恵では理解できない霊的なことだからです。そして、新しくまたは上から生まれるために必要なこと、つまりそのために何がなされるのかをイエス様は竿に上げられた蛇の話で説明します。私たちが新しく生まれるには、イエス様が十字架にかけられる必要があるからです。蛇の話というのは、イスラエルの人々がモーセに導かれエジプトを脱出してすぐに、荒れ野で主に文句を言い始めました。こんな荒野で水も食べ物もない、この先我々をどうするのか?と。そこで主は民の間に毒蛇を送られ多くの人々が噛まれて死にました。しかし、主がモーセに、青銅で蛇をつくり、それを竿に高く掲げなさい、それを仰げば噛まれても生きると言われ、そのとおり信じてその蛇を仰いだ人は命が助かったというストーリーです。この旧約聖書の出来事はイエス様の十字架を信じれば救われる、滅びずに命を得ることをあらかじめ示した型だったのです。

「あげられる」という単語は「持ち上げる・高く挙げる」の二つの意味を持ち、ヨハネ 8:28,12:32-34 でイエス様があげられること、つまり十字架の受難予告を言われています。また、上げられる のもう一つの意味はイエス様が復活後に栄光のうちに召天されることでもあるでしょう。     
人が霊によって新しく生まれためには、イエス様が十字架にかかる(上げられる 14節)必要がありました。神様はイエス様の命を犠牲にされるほど、私たち人間を愛してくださったのです(16節)。イエスが十字架であげられてご自分の命を捧げることによって信じる者が新しく生まれ、永遠の命を得ることが可能となるのです。
    
ヨハネでは命ということばがたくさん使われています(36回)永遠の命に意味は物理的に長生きするという意味より 神によって生きる新しい生き方を言い表す比喩的方法とされます。つまり イエス様を信じる者に与えられる新しい人生を新しく生まれるとし、そのことを「永遠の命」として 語られている。だから将来天国に行って永遠に生きるという意味だけではなく、永遠の命はイエス様を信じた時から始まって継続しています。ですから、ヨハネの17:2-3には
「そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
    
 永遠の命とは、神様とイエス様を知ること、つまりここでの知るという意味は体験して知ることです。私たちの内側が新しくされて、神と共に生きる新しい生き方を日々体験し、ますます神様とイエス様の愛のご性質を味わうことを意味するでしょう。     
    
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネによる福音書3:16
    
 神様は世を(世というのは世の中に住むすべての人、信じる・信じないの区別なく、すべての人を)愛されて、独り子のイエス様を十字架で上げられた、御子の命を犠牲にしてまで神様は私たちを愛してくださいました。この十字架があるからこそ、私たちは霊によって新しく生まれることが出来る、永遠の命という、神と共に歩む新しい生き方を日々体験して歩むことが可能となります。これが神様の救いのご計画であり、すべての人はこの救いを受け取るか受け取らないかの選択に迫られます。なぜなら、その後の箇所で光と闇の話となり、信じないものへの裁きも語られているからです。(18-21節)しかし、神様の目的は    
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」3:17      であります。
    
神様からのプレゼントはすべての人に差し出されていますが、それを受け取らなければ自分のものにならないのです。神様からのギフトであるイエス様を自分の意思で受け取るだけでよいのです。御子によって世が救われるために、そのようなギフトを神様が準備してくださったことを感謝して、この福音を多くの知らない人に伝えていきましょう。具体的にはどうしたらよいでしょうか。先週はペンテコステの礼拝でした。聖霊が注がれると力を受けます。初代の教会の信徒は普通の人、ほとんどの人に学があるわけでなく、性格も身分も様々。唯一の共通点はイエス・キリストを信じ、喜んで聖霊に満たされていたことでしょう。私たちも、普通の人であっても日々聖霊が働かれるよう求めれば、私たちのうちに住む聖霊の力により、神様の愛を周りの人に示せるよう、勇気と語る言葉が与えられます。これが、神と共に生きる新しい生き方(永遠の命)を日々体験していくことにつながり、もっと神様とイエス様の愛のご性質を味わうことが出来ます。この神様の愛に感謝しつつ、十字架に表される神様の愛、またどれ程神様が愛しているかを、未だ福音を知らない人に知らせていきたいとその機会を求め続けましょう。
              
 (引用:新共同訳聖書)