Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

希望を持って主イエスに従う

2022年11月12日 | 日記
「希望を持って主イエスに従う」  
聖書箇所 マルコによる福音書8章31節~9章1節

 本日与えられた聖書箇所より、特に8章34‐35節を中心に「希望をもって主イエスに従う」と題して、イエスにどのように従うかについて御言葉より示されたことを語らせて頂きます。

私たちはなぜ、イエスに従おうと思うのでしょうか。強制や恐れで従うのではなく、自発的に、希望をもって従いたいと思えるのは、イエス・キリストの十字架により、罪が赦され、救われているという信仰が与えられ、喜んで主に仕えたいという思いがあるからだと思います。そして、私たちがイエスを主と呼び、従うと決めたのであれば、主従関係に入るのですから、私たちは従う側であります。まず、イエスは34節で強制的に「従え」とは言われず、「従いたい者は」と各自の自発的な意志を問うて、従うことを招いて下さっています。そして続いてどのように従うかを二つ述べています。

一つ目は「自分を捨て」従うです。では自分を捨てるとはどういうことでしょうか。色々な側面があると思いますが、まず私たちは様々なことを神から与えられています。健康、家族、お金、時間、仕事等。しかし、これらの一つでも欠けた時、自分がそれに如何に固執していて、手放したくないと思っていたことに気付くものです。それぞれ大切で、なくてはならない、捨てられないものだからです。

わたしは医療と介護の相談を患者さんとその家族から受ける相談員という仕事をしてきましたが、多くの介護を抱えた家族がまず口にする言葉は、「自分の時間が欲しい」です。時間は自分のものであり、家族や他人のために時間を費やすことより、自分のために使いたいのです。もちろん、特に介護を長期間続ける家族には、御自分が休む時間は必要ですし、さもなければ共倒れになりますから、その為に介護サービスを利用するよう勧めます。介護に限らず、自分の時間を他者のために「捨てる」、つまり他者に無償で仕えることは、神の愛を行動で示す上で求められることだと思います。そもそも自分の物を惜しみなく、どこまで捨てられるかは、今持っているものは自分のものではないという意識の度合いによるでしょう。もし、これらを自分で努力して得たのでなく、神の恵みによって与えられていると気づけば、おのずと神への感謝と賛美が湧き出ますし、同時に満足が得られます。そして自分が与えられているものを、主に従う気持で喜んで手放すことができれば幸いです。全てを捨てられないかもしれませんが、その人の信仰の成長の度合いによって、「自分のもの」という思いが、捨てられるように変えられた時、イエスが示された愛を、周囲の人々に示していく事で、イエスに従っていければと願います。

また、自分の立てた計画や志はどうでしょうか。私たちはそれぞれ、自分の思いや願いがありますが、まずはイエスの思い、神の計画を優先させることで、自分を捨てるという側面があると思います。なぜ弟子のペトロは33節でイエスに厳しく、しかもサタン呼ばわりで叱られたのでしょうか。聖書を読んでいるとペトロは弟子の中で一番熱心にイエスを愛し、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と豪語するほど、従おうという強い思いを持っていました。しかしその熱心さが自分の思いに基づくと、神の計画を邪魔する方向となってしまうのです。ペトロはこの箇所の直前でイエスをメシアだと告白しましたが(マルコ8:29)、彼のメシア像は当時の多くのユダヤ人が同様のメシアを待ち望んでいたように、ローマ帝国の従属からの独立のための政治的なリーダーでありました。ですから、31節の「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」 とイエスが予告されると、到底受け入れがたいことだったのでしょう。同じ記事が記されているマタイによる福音書では、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめたと記されています(マタイ16:22)。これに対しイエスは、「振り返って、弟子たちを見ながら」とあり、ペトロに対してだけでなく弟子全員に対して叱責されています。これは、主イエスの前に出ず、自分の思いで指図せず、むしろ下がって主イエスの「後」に従いなさいという意味がこめられてると思います。
現代に生きる私たちにどうでしょうか。私たちは、生きる上、生活する中で日々自分の計画、思いを持って行動しています。自分の思いや計画のようにことが進まなかったり、困難な状況がおこると「神様なぜですか?」とつぶやくことはないでしょうか。「私はこうしたいのです」と自分の志について祈って求めるだけで、実際は自分の思いでことを進め、自分中心に行動していることはないでしょうか。どんな小さい事にもこのことは当てはまります。そのなかで、キリスト者として、キリストに従うために何が優先されるか、何のために生きるのかという目的、動機をいつも確認する必要があるでしょう。さもないと、ただ忙しい日々を過ごし、世の中の考え、流行に流されてしまい、キリストを信じる信仰の焦点がずれてしまいます。そんな時、ふと、私の主はだれなのか?ともう一度問い直し、主イエスより前に出ていることに気が付かされたら、悔い改めに導かれる必要があるでしょう。そして、素直に神に委ね、神の御心がなるようにと、忍耐しながら神の計画に従おうと仕切りなおすことができます。どんな状況であっても、神は必ず私たちに導きを与えて下さると信じます。

 二つ目は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)とありますが、自分の十字架を背負うとはどう意味でしょうか。十字架刑はローマの処刑方法でありましたから、当時ローマの従属国であったユダヤ人にとっても、十字架を背負って刑場まで歩く犯罪人を見たことはあるはずです。そうしますと、当時の人々はこの「自分の十字架を背負って」というイエスのことばを自分とは関係のないこととしてとらえ、イエスの言っている意味が分からなかったと思います。私たちは、このイエスの教えをどう理解するかというと、まず、人は誰もキリストのように、全人類の罪を贖うために十字架を背負うことはできません。確かに「この神に背いた罪深い」(38節)世の中で、キリストに従って生きるのは容易なことではなく、当時の信徒達は迫害もあり生命の危険、誹謗中傷、不当な扱いを受けることもありました。キリストに従うことの困難な状態を「自分の十字架を背追って日々歩む」と、譬えられたのでしょう。また、十字架を背負うイコール死ととらえれば、イエスに従うものは常に死を、自分の命を捨てる覚悟を示すともとれます*1。そうとらえると、続く35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」につながるからです。自分の身の危険を冒してまでキリストを信じる信仰を告白できない、と信仰を捨ててしまえば、結局神が与えようとしている永遠の命を失いますが、この物質的な体の命を福音のため、イエスを証しするために失っても、つまり献げたとすれば、永遠の命を頂けます。
 この「福音のために」とありますから、イエスが「全世界に出ていって、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と言われたように、すべての信徒が福音を宣べ伝えなさいという命令に従うことに関わります。この命令に従うのは簡単なことではないです。すべての信徒が牧師や宣教師になるわけではなく、私たちは各々の置かれた場所で、現状の仕事に就きながら家族や、周りの人にイエスの福音を証していくチャンスがあるはずです。目立ったことや、歴史に残るような宣教や証しはできないかもしれません。キリストの福音を述べ伝えるために、人の評価でどれだけ多くのことをしたかではなく、各々が神から任されたところで、たとえ人の目には小さなことでも忠実に行えればと願います。たった一人にキリストを証していこうとすることでも、主キリストの福音のために従うこととなり、神は評価してくださるでしょう。イエスの譬え話の中で「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:21)とあるように、私たちも小さいことに忠実に従い、「良い僕だ」と言われたいと願います。

 すべての人々にキリストの福音が必要です。特にこのコロナ禍の困難な時代において、人々は希望と救いを求め、ネットで簡単に検索しようとしますが、的外れのところに求めて真の神を知る機会がなかなかないのです。人は目で見えないウイルスさえもコントロールできないものであり、いくら科学技術・ITが発達しようとも解決できない問題ばかりです。特に、自分の将来に対して希望が持てない世の中に生きる、つまり先行きが不透明であり、将来の確固とした約束もないので、なるがままをよしとして、受け止め生きていくしかないのです。一時的な楽しみや、知的欲求、持っているもの・地位のなかで自分の存在を認め、たとえそれが満足できなくとも、生きる意味も問うことなしに生き続ける人が多いのです。このような現代の日本で、どこに希望があるのでしょうか。
 だからこそ、私たちはこのイエス・キリストの福音:キリストの十字架によって罪が赦され、恵みと憐みによって、死ぬべき者だった者が永遠の命へと移されて救われること、神によって愛されていること、生きる意味・希望が与えられることを、なんとか多くの人々に伝えていきたいのです。救われている喜び、日々注がれる神の愛に感謝し、その愛に応答して、様々なことがあっても主イエスに従っていきたいと願います。そしてこの信仰の歩みは、いつか天で神とキリストと共に永遠に生きるという希望によって励まされ、支えられています。9章1節「また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」とあります。神の国については様々なとらえ方がありますが、その中の一つに「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とイエスが言われているように、神の国(神の支配)はイエスを救い主として信じ、従うもの「間」にあります。この時に話を聞いていた人の中には、復活のイエスを見て、また使徒たちの働きの中に神の国が力にあふれて現れているのを生きている間に見られた証人達がいるはずです*2。いつかキリストが再び来られ、神の国が完成するという希望があるからこそ、私たちは今、キリストに従って生きようと覚悟ができるのだと思います。

イエスに従うことで多くのことを手放すことを求められ、また、将来の日本でもキリスト教に対する迫害が再び起こりうる、つまり困難や死の危険にさらされるかもしれません。もし、怖れが生じたら、イエスが言われた御言葉「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)を思い出し、その都度、忍耐と慰めと平和が神から与えられると信じましょう。そして使徒パウロも、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。・・・」(ローマ8:35-39)と記すように、誰によっても、迫害・試練等のどんな状況によっても、このわたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離せないのです。この神の愛と希望によって、主イエスに従って生きたいと願います。そしてこのキリストの福音を、私たちの周りの人に証しするチャンスと勇気が与えられるように、祈っていきましょう。最後にローマの信徒への手紙15章13節をお読みします。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 」内に住む聖霊がこの希望に満ち溢れさせて下さるように、互いの為に祈っていきましょう。

(聖書引用:新共同訳聖書)

なぜ軽井沢?

2022年11月07日 | 日記
 先日、軽井沢にあるいくつかの教会を訪問しました。観光地にもなっているこれらの教会は、明治時代、19世紀後半以降に欧米の宣教師たちによって建てられた歴史的建造物でもあります。私は建物の古さよりも、この時代に海外から来て、この地に移り住んだ宣教師たちはどのような思いだったのかと、静かな礼拝堂のなかでしばし想いをはせました。

 私がアメリカに住んでいた時、部屋をお借りしていた時の家主は、若い時日本に在住していたことがあるそうです。彼女の両親は日本で宣教師として新潟に在住し、その影響もあってか彼女も宣教師を目指し、軽井沢にある宣教師訓練の学校に行っていたと話していました。しかし彼女は、自分の召命が宣教師ではないという結論に達し、アメリカに戻って看護師になったそうです。その時も、「なぜ軽井沢に宣教師訓練校があったのかな?」と思ったものです。そこで軽井沢の歴史を調べてみると、日本の開国と同時に入ってきた外国人宣教師たちが、蒸し暑い日本の避暑地として軽井沢を発見し、口コミで宣教師、外国人に広まり、参勤交代がもはやなくなり、さびれてしまった宿場町の軽井沢が、外国人別荘地として発展していったそうです。きっかけは暑さに弱い西洋人から始まったということでしょうか。

 日本という国は、世界の宣教師にとって伝道が困難な場所の一つだと言われます。現実的にはどの国も困難なはずです。なぜなら、その国独自の歴史、文化があり、西欧で発展したキリスト教の概念を理論的にも、精神的にも理解し、信仰に入るというのは常識で考えても難しいからです。ましてや、明治期のキリスト教が帝国主義を掲げる西欧の列強諸国とともに入ってくると、キリスト教を国の近代化に利用する人々もいれば、侵略者・外国の宗教と排斥感情を持つ人々もいたはずです。一方、似たような歴史を通過したインドネシアではイスラム教徒が多数派ですが、キリスト教徒の割合も多いのです。

 イエス様は下記のみことばにあるように、「人にはできないが神にできる」と弟子たちに言われました。私たちの常識で、「これは無理だろう」「誰が、2千年前に十字架にかけられて死んだイエスを、神だと信じられるのか?」と思うことでも、神に不可能なことはないということです。ある人がキリストを信じる信仰に導かれるということは、奇跡と言えます。奇跡でないと信じられない・不可能だと思える内容がキリストの福音だからです。しかし、イエス様が言われたように、何世紀にもわたり、イスラエル国のエルサレムという小さな町で、数人の弟子たちの伝道から始まり、世界に伝えられ、信じた一人ひとりの人生に多くの奇跡が起こっていることを思うと、神様には不可能はないということが実証されているのではないでしょうか。キリストを自分の救い主だと信じることのできる人は幸いであり、また超自然的な力、つまり聖霊の働きによってそれがどんな人にも可能であります。日々この奇跡が、人々の間で起きるように祈っていきたいと思います。

「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」  マタイによる福音書19章25-26節