Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

土壌のたとえ

2022年01月10日 | 日記
 自然に熟成してできる肥料が土に撒かれれば、手間はかかりますが作物にとってよい土壌となるでしょう。先月、アジア学院という農業指導者養成専門学校へ見学に行ったときに、「ぼかし」という有機肥料がどのように作られるか説明を受けました。大量生産をする農場では人工的に作られた肥料を散布して作物を植えますが、ここではすべてを循環させ、無駄なく再利用されているという説明を受け、まさにSDGsにのっとった生活が行われていると感銘を受けました。しかし、この作業には手間と時間がかかります。現代はスピードをもって大量生産・大量消費という、利益優先のもとに行われているので、結果的に自然の循環を崩して食料を生産している社会であります。便利で効率的、スピーディの半面、自然の循環にひずみを生じさせ、また人は何事においても時間をかけることをマイナスととらえ、短気になり、忍耐力を育てていくことができないという現象がある、このことにどれだけの人が気づき、問題意識をもって、改善しようとしているでしょうか。

 聖書の中で有名な「種まきのたとえ」があります。イエス様は人々に何かを伝えるとき、身近なことをたとえて話をされました。この種まきのたとえは、種をまく人が、いろんなところに撒きます。道端、岩地、茨の生えている地、そしてよい土壌の地。常識的には、種をまく人は作物を育てるためには良い土地にしかまきませんが、このたとえでは、とても作物が育たないだろうという場所にさえ、種がまかれます。私はこの「種まきのたとえ」が「土壌のたとえ」でもあると思います。種は聖書のことば、み言葉のことです。み言葉は一部の人々だけではなく、すべての人に伝わるように神様はその人の人生の中で、必ずみ言葉に触れる機会を与えて下さるはずです。しかし、そのみ言葉を受け取る側の心の状態によって、芽がでないもの、出ても枯れてしまうもの、成長して実を結ぶものがあります。そのことをイエス様はこう解き明かしをされました。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」*1

 クリスチャンになった時、つまりイエス・キリストを救い主だと信じた時はいわば霊的に生まれたばかりの赤ん坊です。そこからスタートであり、大人として成長していかなければ実を結ぶまでいかないでしょう。聖書でいう実とは、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」*2とあり、その人の品性がキリストのように愛ある心と行動に移せる者へと変えられ、他者に示していくことだと思います。この霊の実は工場ではなく、有機栽培の農場で生産される実であり、一晩では実を結ばないし、時間がと手間がかかることです。時間と手間をかけて、心の土壌を耕し、豊かにしていくことは私たち人間の側がすることです。日々み言葉にふれ、祈って神様とのコミュニケーションを続け、神様を礼拝する、これらは最低限の必要な「手間」なのではないでしょうか。
 幸い、神様は寛容で、忍耐深く、情け深い方であるので、今の心の状態が道端であっても種をまいて下さる方です。私自身、短期で、忍耐がなく、失敗を繰り返すものでありますが、神様の愛を注いでくださいと求め続け、この愛の実を結べるように心が変えられて、周りの人と接していきたいと忍耐をもって祈り続けたいと思います。

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」マタイによる福音書13章23節

*1マタイによる福音書13章19-23節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節  (引用:新共同訳聖書)

新しい年における望み

2022年01月09日 | 日記
 朝起きると、外は一面銀世界が広がっていました。昨晩から降り続けた雪が、益子の町の里山と畑を真っ白に覆い、車を運転していてつい見とれてしまう程ですが、スリップしないように慎重に運転をしなければなりません。毎年一月の中旬は大雪になることが多く、降雪による不便もありますが、それでも雪景色の美しさには感動します。神様の創造された自然をしばし堪能できることを感謝いたします。

 先日の黙想のために読んだ箇所がこのの詩編でした「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。」。日々の生活の中で、自分はどれだけ黙って、心静かにしていられる時間があるのだろうと思います。ニュースを見れば、感染拡大のニュースが不安をあおります。私の周りにはまだ感染した方がいなくとも、勤務上3回目のコロナワクチンを打たねばならず、今朝はその副反応の頭痛もあり朝起きるのが辛く、いつまでこれを繰り返すのかと思うこともあります。それでも一日が終わる際に床につき、今日一日を振り返ると、神様がともにいて下さった、感謝だなあと静まって神様に祈る時間が短くともとれて、安心して眠りにつけるのが本当に幸せだと思います。こんな不肖の私にも拘わらず、神様は日々良くしてくださり、恵みを下さるので、ついこんな愛の神様に甘えてしまいます。

 日常生活のあわただしい中で魂が静まっていられるのは、容易なことではないです。それでも私が主を信頼し、心静かになれるところに戻れるのは、何もできない赤ちゃんが、時折ギャーと泣いて自分の不安を訴えますが、その後母親の世話のもと安心して眠れるかの如くです。自分は体と気持ちは大人ですが、今自分の力では何もコントロールできない、無力であることを実感せざるをえない社会的状況におかれています。ですから基本は母親に頼る赤ん坊のように、神様にゆだねるしかないのです。私はいろいろなことが起こっても、この信頼のもとに天の父なる神様の御手の中にすべてゆだね、平安に過ごしたいと願います。

 私たちが信じている神様は、誠実で、約束を守られる方なので、聖書に書いてある平安の約束に基づく希望と、わたしたちに注がれる神様の愛を信じて、今年も一歩一歩歩んでいきたいと思います。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 」詩編62編5節