Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

陶芸家と陶器

2020年01月31日 | 日記
 登り窯は、NHKの連続テレビ小説スカーレットの信楽焼にも登場する、陶芸用の窯のことですが、16世紀後半に中国・朝鮮を経て唐津で導入され、日本全国で普及したそうです。登り窯は傾斜の地に複数の焼成室が繋げて作られ、上から見ると房が繋がった様な形をしています。私達が4月から住む益子の町は陶器の町で登り窯があり、以前見に行ったことがありますが、とても独特で、その焼き味は陶芸を志す人ならば一度はその窯で焚いてみたいと思うそうです。2020年は、益子焼を広めた陶芸家の濱田庄司氏が、英国の陶芸家の友人と共に、西欧で初めて登り窯をセント・アイビスという英国の町に作って100年目の年で、益子の町でも記念の様々な行事が5月か11月まで開催されるそうです。その際、私も簡単な陶器を作ってみようかなと、とても楽しみでもあります。

 陶器というのは古代、どこの地域でも文明の利器として使われてきています。古代イスラエル国でも陶器師がいましたが、ある時、エレミヤという預言者が神様により陶器師が作っている場所へ行けと導かれ、陶器がを作られる工程を見た後、次の言葉を神様から言われました。「粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」 1*

 私達クリスチャンは「神様の御手の中にある」という言い方をします。これは、陶芸家が神様で、粘土が私達人間にたとえられていて、私達は生まれる前から、神様には一人一人の人生に「こんな器に作ろう」との計画があり、粘土を練るところから器として用いられるまでの全ての工程が神様の御手によってなされているということでしょう。一つ一つの陶器が違うように、私達人間は神様の手で、愛を持って創られたこの世にたった一人しかいない存在。だから、人生に様々なことがあっても、神様を信じて生きていけば、私達は神様の働きのための器として用いられ、全てのこと:良い事も悪い事を相い働かせて益として下さる*2という約束が聖書に示されています。

 「自分の人生は、自分のものであって、自分の意志と力で生きている」と信じているうちは、自分の存在が神様の御手にあるということを理解できないかもしれません。しかし、自分の存在は神様に愛されるためにあり、神様の祝福と恵を受け取れる様に一人一人に用意されていること、そのために神様の御子イエス・キリストを送って下さったことを知ってほしいと、神様は忍耐強く待っておられます。その神様の愛を知った時初めて、自分は土の器にすぎないけれど、その中にある神様の光が世に照らされ、神様の計り知れない力が自分を通して現わされる、自分の力ではないことが分かるようになり、今迄の「自分が自分が」という思いが砕かれて、神様の前に低くさせらるのではないでしょうか。

 神様の御手の中にあるという安心は、神様への信仰に基づいて心に与えられているので、生活の中で様々なことが起こったとしても、神様の守りに支えられて乗り越えていけると信じられることは、なんという恵でしょうか。この神様の恵を受けて、み言葉を信じて歩んでいきたいと今日も励まされます。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであっ て、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」私たちは土の器であります。 」第2コリント人への手紙 4章7節


*1 エレミヤ書18章6節
*2 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 ローマ人への手紙 8章28節    (引用:新改訳聖書)

約束を守れない人のために

2020年01月19日 | 日記
 先日、幼稚園の行事に参加していたとき、園の先生がおしゃべりをしている園児達に注意している様子が目にとまりました。「お話しを聞くときは、おしゃべりをしない、というお約束をしたよね。今は静かにしましょう!」先生たちは、園児たちと園生活の中で様々な「お約束」をしているようです。このように集団生活の中で幼い頃から、「約束を守ること」を教えられ、身につけていくことは、社会生活の基本となることなので、とても重要だと思いました。社会とは様々な契約から成り立ち、人々は互に法律の順守がなされるだろうという信頼関係が前提となり、法律を破れば罰則が科せられます。法律が伴わない、個人的な約束を取り交わしたとしても、それをお互い守ることが期待され、どちらかが破れば、両者の関係にひびが入ります。
 聖書の神様は人と約束をする方です。しかし、最初に、人間を創造された時からこのかた、人間はいつも約束を守れず、その結果、人は生まれながらにして神様から断絶してしまっています。しかし、それでも神様はなんとか人との関わりを続けるために、その後様々な約束、戒めを預言者等を通して、まずはユダヤ民族に与えました。たとえば、たくさんある中で一番大事な戒めは「神を愛しなさい」*とされています。神の与えた戒めを守れば神は人を祝福される、しかし、守れなければ神の守りが伴わず、神の怒りをうけ、人は自分のしたことに対する責任をとらなければならず、自分が蒔いた種を痛い思いをして刈り取らなければなりません。神様は人間が平和に互いに尊重し合って生きれる様に、戒めを与え、それを守るようにと言われてきましたが、その約束がなかなか果たせないがゆえ、人間の悲しい戦争の歴史、互に傷つけあう社会が繰り返されてきていると言えるでしょう。
 神様が与えた約束を守れない人間の救済措置として、人となってこの世に来てくださったのが、神の子であるイエス・キリストです。人が神様との約束を守れなくても、そのペナルティを人が支払うのではなく、代わりにすべてイエス様が十字架上で払う、罰を負うことにして、その結果、私達が犯した罪に対する刑罰はあったのにそれが帳消しにされ、私達人間はキリストのおかげで神様に赦され、新しい命が与えられるという、恵の約束、それがゴスペル:福音(良いしらせ)です。
 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 (ヨハネ15:13) ここで「人」とはイエス様を指します、イエス様は私たちを友とみなして、友のためにご自分の命を捨ててくださったのです。そこまで私達を愛して下さっている。この大きな愛の約束は、ただこの救いを信じれば成立するのです。神を愛し、人を自分を愛するように愛しなさいという神様の戒めは、たくさんある戒めの中で最も大切で、他の全ての戒めはこれらにかかっているとイエス様は言われました。要は神様の戒めは愛で、見えない神を愛するというのは具体的にその戒めを守ることなのです。そしてキリストを信じれば、キリストによって示された愛によって私達の内側が変えられていき、私たちも神と人を愛せるように、聖霊の働きによって徐々に変えられていくという希望も聖書に記されています。だから、下記の聖書のことばのように、自分の力で守れなくて、ああ無理だと!その戒めを守ることが重荷とならないのです。すべてのことが恵として神様に用意され、私達が約束を守れるように助けて下さることを、日々感謝しつつ、賛美を捧げ、互いの平和のために祈っていきたいと思わされました。
 
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 」第一ヨハネの手紙5章3節(口語訳聖書)

*「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。  マタイによる福音書22章36-40節

頭に思い浮かぶもの

2020年01月05日 | 日記
 皆さんは、朝起きてから、様々な活動をしながら、何か自然と頭に思い浮かんでしまうことはありますか?私の場合、将来はこうなれば良いなあと、実現可能かどうかは神様の計画次第ですが、色々な夢や希望を空想したりします。一方、洗濯物を干しながら、あの時はこう相手に言えばよかった、ああしないでこうすればよかった。。。と、変えようのない過去に対して空想する生産性のない、非建設的な思いが、時折沸いてしまいます。また、心配性でもあります。例えば、健康診断で何かひっかかり再検査となる。するとその結果がでるまでに、最悪のシナリオを空想。もしこのようなマイナスの思考が無意識に頭に上ってきたら、はっと気づき、神様、この思いを消してくださいと祈ります。

 たとえ、ブログでどんな話題になる面白いことを書けても、もしくは社会的に地位がある人で美辞麗句を人前で話せたとしても、人の言動はその人の心にあるものを反映し、ボロはでるものです。自分の生まれつきの性格、傾向性は簡単に変えられないかもしれないし、社会に生きている限り心に悪い影響を与える様々なことから自分を守るには限界があります。しかし、昔の西洋のことわざで、「鳥が頭上を飛ぶのを止めることはできないが、鳥が自分の頭に巣を作るのは阻止できる」とあるように、自分の心に内外から入って来るものをある程度コントロール出来るはずです。それには意識的に行動をとる必要がありますが、どうしたら巣を作られないように心をコントロールできるのでしょうか?

 私の場合は、神様のことばである、聖書のことば(みことば)に力があると信じ、朝起きたらまずは聖書を夫と一緒に読んで、共に祈ってから一日を始めるようにしています。また、なるべく、賛美歌やゴスペルを家にいる時、車を運転している時BGMで流し、自分だけのときは口ずさむようにして、積極的に心に良い物を取り入れようと心がけています。そして、生活の中で具体的に「こうこう思っているんですが、どうしたらよいですか?」と神様に祈り求めます。実際今まで人生の、生活において、みことばによって決断で導かれ、励まされ、また戒められてきて、今の自分があります。みことばは私の力であり、それを与えて下さる神様に感謝しています。

 マイナスの思考、過去の嫌な思い出のフラッシュバック、恐れが、私の頭上を矢のように飛んでくるのは、日々さけられません。しかし、それをブロックする聖書のみことばを盾にして、意識的に、真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、称賛に値するものをまめに心にとめ、それらで心を占められ、自身の言動に反映されてほしいと願います。これらの良いことは全て神様のご性質にあり、みことばに示されています。キリストに従い、自分自身もこのような思いに満たされ続けるように、賛美をいつも身近で流し、みことばに触れていきたいと祈り続けようと思います。

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」ピリピ人への手紙4章8節