”Stay Home” 、今の時期、日本で出された感染防止対策。春という、一番新緑の美しい時期、観光シーズンの時期に多くの人にとって、これは厳しい自粛要請かもしれませんが、必要なことであります。しかし、最低限ネットでコミュニケーションができるし、普段忙しくてできないことをしたり、本を読んだリ、DVDを観たりと家での過ごし方は工夫すればあっという間に時間はすぎます。同じ状況をストレスに思うかどうかは、その人の気の持ちようでもあります。狭い空間で、自分の思いや希望ばかり通そうとせず、互いに、忍耐することがキーでしょう。
しかし、全く思い煩いや不安がないのかというと、そうではありません。この状態が長期化し、仕事も出来なくなるかもしれないという懸念はあります。今これを書いている最中に、震度4程度の地震がおこり、ちょっと怯えます。メディアを通して、人々を元気づけようと、多くの著名人、スポーツ選手たちが様々な動画を流していますが、同時に一日中報じられているコロナの感染状況が、その励ましや娯楽を覆ってしまうほど大きく、再び気分は暗くなります。私はもともと、娯楽番組。動画が気晴らしにならず、むしろ観たいのは、人々が様々な困難を乗り越えようとして頑張っているドキュメンタリー等で、悲しみの、もしくは感動の涙を流せるコンテンツがもっと放映されればいいなあと願います。いずれにしても、報道、TV局の人々が国民を励まそうと頑張っていることには変わらず、そのご苦労を感謝していますし、日々祈っていることは、医療従事者の安全です。コロナとの闘いに命をはって、最前線で働く方々の健康が守られるようにと。
私たちは、人と人とが助け合い、互いを思いやるという愛や絆に感動を覚え、これで頑張ろうと励まされますし、そこに希望を置く人が多いと思います。しかしながら、自分を含め、人が出来ることの限界を考えると、人に、また人がなしうる科学技術に、お金に、人の自己実現による生きがい等に希望を完全に置けるでしょうか。冷たい人間に思えるかもしれませんが、私はこれらに期待をかけても、必ず失望すると思います。もちろん、世の中には立派な働きをする人、徳がある人はたくさんいて、その方々には感謝はしていますし、自身のように何もない者と比較しようがないですが、それでも完璧な人はいないし、万能ではない、結局のところ、自分が希望を置いた対象が、必ずしも自分の都合のよいように、自分の願うように動かないということは、生きていれば誰でも経験することでしょう。では、自分だけ信じればいいのでしょうか、何に期待を置けるのでしょうか。
下記の聖書の箇所のヨナ書には、ヨナという古代イスラエルの預言者が、苦難の中から神様に叫んだ祈りが記されています。彼は、実は反抗的な預言者で、神の命令に背いて、そのおかげで彼が乗船した船で嵐に合い、海の中に投げ込まれて、大魚の腹に飲み込まれてしまったという、情けない人です。しかし、彼は腹の中でもう死ぬという、絶望の状態で、神様に叫び求めます。すると、神様はそれを聞き、答えて下さったと、まだ彼の命が助かる前に(つまり、魚の腹の中ではいつまでも生きていられませんから)このように祈っています。このことから、彼が神に信頼し、希望を置いていることがわかります。そして、彼は3日後に大魚の口から吐き出され、神が最初に彼に行けと命じた、アッシリア帝国の首都ニネベの浜辺に打ち上げられ、そこで神のミッションをすることになるのです。真の神は全知全能な神で、全ての人を目的を持って創り、命を与えて下さった方なので、完全な希望を置ける神です。信じるには、もっと知る必要があります。どんな神で、なぜ希望を置けるのかが聖書のことばを通して分かり、そして信じる信仰も与えられていきます。
明日は自分が感染して、死ぬかも知れないとい可能性はゼロではなく、まだコロナウイルスに対する治療薬もワクチンも開発されていない、医療崩壊が起こるかもしれない、先行きが不安な現実にあっても、私もヨナのようにイエス・キリストに希望を置こうと思います。この希望は失望に終わらない*1と信仰の先人達のことからも、確実だとわかりますし、そのような信仰が与えられています。どんな状況になっても、私の魂の平安を取り去るものはないという、信仰を強めて頂きたいと、神様に願っています。というのは私の信仰ほどあてにならないものはなく、自分の意志の力で自分に希望を置いたり、自分を信じたりするほど強い者ではないからです。信仰とは求めれば神により与えられ*2、強められる、成長させられるものです。キリストは、ただ天国にいて、人々が苦しんでいる状況、不安におびえている状況に高見の見物をしている方ではなく、目に見えなくとも、傍に寄り添って励まし、導いて下さる方だと聖書に記されています。私の今の状態もそのようにして、生かされていることを、神様に感謝しつつ、信仰に固く立つ力を日々与えて下さいと祈っています。
「(ヨナは)言った。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 」 ヨナ書2章2節 ( )は追記
*1 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章1-5節
*2 信仰さえも、神からのプレゼントであることが記されている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」エペソ人への手紙2章8節
しかし、全く思い煩いや不安がないのかというと、そうではありません。この状態が長期化し、仕事も出来なくなるかもしれないという懸念はあります。今これを書いている最中に、震度4程度の地震がおこり、ちょっと怯えます。メディアを通して、人々を元気づけようと、多くの著名人、スポーツ選手たちが様々な動画を流していますが、同時に一日中報じられているコロナの感染状況が、その励ましや娯楽を覆ってしまうほど大きく、再び気分は暗くなります。私はもともと、娯楽番組。動画が気晴らしにならず、むしろ観たいのは、人々が様々な困難を乗り越えようとして頑張っているドキュメンタリー等で、悲しみの、もしくは感動の涙を流せるコンテンツがもっと放映されればいいなあと願います。いずれにしても、報道、TV局の人々が国民を励まそうと頑張っていることには変わらず、そのご苦労を感謝していますし、日々祈っていることは、医療従事者の安全です。コロナとの闘いに命をはって、最前線で働く方々の健康が守られるようにと。
私たちは、人と人とが助け合い、互いを思いやるという愛や絆に感動を覚え、これで頑張ろうと励まされますし、そこに希望を置く人が多いと思います。しかしながら、自分を含め、人が出来ることの限界を考えると、人に、また人がなしうる科学技術に、お金に、人の自己実現による生きがい等に希望を完全に置けるでしょうか。冷たい人間に思えるかもしれませんが、私はこれらに期待をかけても、必ず失望すると思います。もちろん、世の中には立派な働きをする人、徳がある人はたくさんいて、その方々には感謝はしていますし、自身のように何もない者と比較しようがないですが、それでも完璧な人はいないし、万能ではない、結局のところ、自分が希望を置いた対象が、必ずしも自分の都合のよいように、自分の願うように動かないということは、生きていれば誰でも経験することでしょう。では、自分だけ信じればいいのでしょうか、何に期待を置けるのでしょうか。
下記の聖書の箇所のヨナ書には、ヨナという古代イスラエルの預言者が、苦難の中から神様に叫んだ祈りが記されています。彼は、実は反抗的な預言者で、神の命令に背いて、そのおかげで彼が乗船した船で嵐に合い、海の中に投げ込まれて、大魚の腹に飲み込まれてしまったという、情けない人です。しかし、彼は腹の中でもう死ぬという、絶望の状態で、神様に叫び求めます。すると、神様はそれを聞き、答えて下さったと、まだ彼の命が助かる前に(つまり、魚の腹の中ではいつまでも生きていられませんから)このように祈っています。このことから、彼が神に信頼し、希望を置いていることがわかります。そして、彼は3日後に大魚の口から吐き出され、神が最初に彼に行けと命じた、アッシリア帝国の首都ニネベの浜辺に打ち上げられ、そこで神のミッションをすることになるのです。真の神は全知全能な神で、全ての人を目的を持って創り、命を与えて下さった方なので、完全な希望を置ける神です。信じるには、もっと知る必要があります。どんな神で、なぜ希望を置けるのかが聖書のことばを通して分かり、そして信じる信仰も与えられていきます。
明日は自分が感染して、死ぬかも知れないとい可能性はゼロではなく、まだコロナウイルスに対する治療薬もワクチンも開発されていない、医療崩壊が起こるかもしれない、先行きが不安な現実にあっても、私もヨナのようにイエス・キリストに希望を置こうと思います。この希望は失望に終わらない*1と信仰の先人達のことからも、確実だとわかりますし、そのような信仰が与えられています。どんな状況になっても、私の魂の平安を取り去るものはないという、信仰を強めて頂きたいと、神様に願っています。というのは私の信仰ほどあてにならないものはなく、自分の意志の力で自分に希望を置いたり、自分を信じたりするほど強い者ではないからです。信仰とは求めれば神により与えられ*2、強められる、成長させられるものです。キリストは、ただ天国にいて、人々が苦しんでいる状況、不安におびえている状況に高見の見物をしている方ではなく、目に見えなくとも、傍に寄り添って励まし、導いて下さる方だと聖書に記されています。私の今の状態もそのようにして、生かされていることを、神様に感謝しつつ、信仰に固く立つ力を日々与えて下さいと祈っています。
「(ヨナは)言った。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 」 ヨナ書2章2節 ( )は追記
*1 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章1-5節
*2 信仰さえも、神からのプレゼントであることが記されている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」エペソ人への手紙2章8節