Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

希望:何に望みを置くのか

2020年04月26日 | 日記
 ”Stay Home” 、今の時期、日本で出された感染防止対策。春という、一番新緑の美しい時期、観光シーズンの時期に多くの人にとって、これは厳しい自粛要請かもしれませんが、必要なことであります。しかし、最低限ネットでコミュニケーションができるし、普段忙しくてできないことをしたり、本を読んだリ、DVDを観たりと家での過ごし方は工夫すればあっという間に時間はすぎます。同じ状況をストレスに思うかどうかは、その人の気の持ちようでもあります。狭い空間で、自分の思いや希望ばかり通そうとせず、互いに、忍耐することがキーでしょう。

 しかし、全く思い煩いや不安がないのかというと、そうではありません。この状態が長期化し、仕事も出来なくなるかもしれないという懸念はあります。今これを書いている最中に、震度4程度の地震がおこり、ちょっと怯えます。メディアを通して、人々を元気づけようと、多くの著名人、スポーツ選手たちが様々な動画を流していますが、同時に一日中報じられているコロナの感染状況が、その励ましや娯楽を覆ってしまうほど大きく、再び気分は暗くなります。私はもともと、娯楽番組。動画が気晴らしにならず、むしろ観たいのは、人々が様々な困難を乗り越えようとして頑張っているドキュメンタリー等で、悲しみの、もしくは感動の涙を流せるコンテンツがもっと放映されればいいなあと願います。いずれにしても、報道、TV局の人々が国民を励まそうと頑張っていることには変わらず、そのご苦労を感謝していますし、日々祈っていることは、医療従事者の安全です。コロナとの闘いに命をはって、最前線で働く方々の健康が守られるようにと。
 
 私たちは、人と人とが助け合い、互いを思いやるという愛や絆に感動を覚え、これで頑張ろうと励まされますし、そこに希望を置く人が多いと思います。しかしながら、自分を含め、人が出来ることの限界を考えると、人に、また人がなしうる科学技術に、お金に、人の自己実現による生きがい等に希望を完全に置けるでしょうか。冷たい人間に思えるかもしれませんが、私はこれらに期待をかけても、必ず失望すると思います。もちろん、世の中には立派な働きをする人、徳がある人はたくさんいて、その方々には感謝はしていますし、自身のように何もない者と比較しようがないですが、それでも完璧な人はいないし、万能ではない、結局のところ、自分が希望を置いた対象が、必ずしも自分の都合のよいように、自分の願うように動かないということは、生きていれば誰でも経験することでしょう。では、自分だけ信じればいいのでしょうか、何に期待を置けるのでしょうか。

 下記の聖書の箇所のヨナ書には、ヨナという古代イスラエルの預言者が、苦難の中から神様に叫んだ祈りが記されています。彼は、実は反抗的な預言者で、神の命令に背いて、そのおかげで彼が乗船した船で嵐に合い、海の中に投げ込まれて、大魚の腹に飲み込まれてしまったという、情けない人です。しかし、彼は腹の中でもう死ぬという、絶望の状態で、神様に叫び求めます。すると、神様はそれを聞き、答えて下さったと、まだ彼の命が助かる前に(つまり、魚の腹の中ではいつまでも生きていられませんから)このように祈っています。このことから、彼が神に信頼し、希望を置いていることがわかります。そして、彼は3日後に大魚の口から吐き出され、神が最初に彼に行けと命じた、アッシリア帝国の首都ニネベの浜辺に打ち上げられ、そこで神のミッションをすることになるのです。真の神は全知全能な神で、全ての人を目的を持って創り、命を与えて下さった方なので、完全な希望を置ける神です。信じるには、もっと知る必要があります。どんな神で、なぜ希望を置けるのかが聖書のことばを通して分かり、そして信じる信仰も与えられていきます。

 明日は自分が感染して、死ぬかも知れないとい可能性はゼロではなく、まだコロナウイルスに対する治療薬もワクチンも開発されていない、医療崩壊が起こるかもしれない、先行きが不安な現実にあっても、私もヨナのようにイエス・キリストに希望を置こうと思います。この希望は失望に終わらない*1と信仰の先人達のことからも、確実だとわかりますし、そのような信仰が与えられています。どんな状況になっても、私の魂の平安を取り去るものはないという、信仰を強めて頂きたいと、神様に願っています。というのは私の信仰ほどあてにならないものはなく、自分の意志の力で自分に希望を置いたり、自分を信じたりするほど強い者ではないからです。信仰とは求めれば神により与えられ*2、強められる、成長させられるものです。キリストは、ただ天国にいて、人々が苦しんでいる状況、不安におびえている状況に高見の見物をしている方ではなく、目に見えなくとも、傍に寄り添って励まし、導いて下さる方だと聖書に記されています。私の今の状態もそのようにして、生かされていることを、神様に感謝しつつ、信仰に固く立つ力を日々与えて下さいと祈っています。

「(ヨナは)言った。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 」 ヨナ書2章2節 ( )は追記

*1 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章1-5節

*2 信仰さえも、神からのプレゼントであることが記されている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」エペソ人への手紙2章8節

人生の嵐と土台

2020年04月22日 | 日記
 これまでも大規模な自然災害、疫病の流行は歴史的にも起こってきていますが、今回の新型コロナウイルスの世界的蔓延は、史上で最大規模であり、お互いこれを乗り越えるために協力していくことが大切だと、メディアを通じて日々伝えられています。科学が現代のように発達し、流通と人の活動がグローバルに発展している環境に慣れていると、昔のように家でシンプルに過ごさねばならないことが、さらなるストレスとなってしまう人もいるかもしれません。

 科学ではどうしようもないと、また直接的な因果関係がわからない災害・事故について、普段神を信じていないのに、無意識的にそれが神の罰とか裁きだと考える傾向が人々の中にあります。日本では、小さいころから「罰があたるぞ」というフレーズを耳にしてきました。この疫病は人間の傲慢さに対する神の厳しい裁きだという人、聖書に記されている「この世の終わり、終末」だと短絡的に考える人もいたりするしょう。確かに、人の科学・知識が万能であるとするおごりはあり、謙遜になる必要はあるかもしれませんし、神を“畏れる”気持ちを持ったほうが良いと思います(“畏れ”と“恐れ”は意味が微妙に異なる)。しかし、単に神の裁きだという恐怖心だけでは、信じる気持ちにもならず、不安ばかり増して益になることはありません。

 聖書で一貫しているメッセージは、神は人間を愛していて、大切に思っている、恵を与えよう、祝福したいということです。そして、聖書の神は善人にだけ恵みを与えるのではなく、天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる方 *1であり、一方で、災害や病気、試練は誰にでも起こりうるのです。*2 ですから全体の論点をみず、部分的に聖書を引用すると、おかしな解釈や理解となり、そうなると神の存在が平安や感謝ではなく、恐れと疑いとなります。しかし、これらは愛の神の性質から来ているものではありません。
 
 「神が愛なら、なぜこんなことが起こるのか?」という疑問。しかし、その疑問を持つ前に、起こしている原因のほとんどは人間の欲、傲慢さにあるということを認めることが必要ではないでしょうか。神が愛であることを知るには、まず自分の傲慢さ、神を認めない罪を悔い改め、そして自分の意思や力で善になれないと自覚し、そのために自分には救い主が必要だと求めることから始まります。そして求めれば信仰が与えられ、キリストを信じる信仰が人生の土台となります。すると、様々な人生の嵐が来ても、土台がしっかり据えられているので、その人は倒されないと、下記の建築のたとえをキリストは語られています。これからも、様々な試練が生きている上で起こるでしょう。だからこそ、このキリストという土台によって、恐れではなく、自分を愛して、助け、導いてくれる神を信頼し、励まされて日々歩んでいきましょう。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」マタイによる福音書7章24-27節

*1 マタイによる福音書5章45節
*2 ヨブ記には、ヨブは「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」と神にも認められていたが(ヨブ記1章1・8節)、彼には過酷な試練(自然災害、略奪により家族・財産を一機に失う)が起こったことが記されている。


見えない脅威に対してすること

2020年04月16日 | 日記
 人は、その人に信仰心があるなしに関わらず、どんな時、祈る気持ちになるでしょうか。特に、特定の神様を信じていない人にとっては、人間の力、能力、方策、技能でもってしても、どうしようもない時、最後にすることかもしれません。「祈るほかない」と。現在の状況ですと、肉眼で見えないウィルスの脅威に対して、どんなにマスクをして消毒しても、誰が感染しているかわからない為、どこで感染してしまうか見極めることができない、100%防御率がありません。そして、その治療薬、ワクチンもまだ開発されるには時間がかかります。

 アメリカは、日本と比べてクリスチャンの数も多く、キリスト教的歴史背景、文化、慣習がある国ですが、それでも真剣に信じている人、教会に熱心に礼拝に行く人はそう多くはありません。しかし、政府による緊急事態宣言に伴う厳しい外出制限後、オンラインで礼拝をおこなっているある教会の統計によると、今までにない程の多くの礼拝配信へのアクセス数になっているとのことです1*。つまり、普段教会には、冠婚葬祭、イースターとクリスマス位しか行かないアメリカ人の多くが、オンラインで礼拝を聞き、牧師の話に耳を傾け、祈りに心を合わせていると察します。まさに、祈るしかない、という状態です。

 一方、日本はこのような西欧文化ではなく、また神社やお寺が礼拝のオンライン配信することはないと思います。では日本人はどうしているのでしょうか?詳しくはわかりませんが、今までと異なる生活スタイルを構築するのに必死になり、自分たちで努力して、ストレスがかからないように過ごせる、巣ごもりの方法を模索しているかもしれません。

 キリストを信じる者にとって、祈りとはまさに、「神のみ前に」出ることではないでしょうか。祈りが単なる、お願いごと、嘆願を叫ぶだけでなく、本質的には、祈りとは大いなる、畏敬の念を抱かずにいられない神のみ前に、安心して、自分をさらけ出すことが出来ることだと思います。祈りを通して神様の前に出ることは、特別の場所に行く必要がなく、人里離れたところに独りで籠らなくとも、日常生活の中で心の中できるます。自身がどこにいても、神様の御前にいるということに意識を集中すれた、周りのことを全て忘れて、あなた(私)と神だけのマンツーマンの世界になれます。そこには、自分が神様に祈る資格がなくても、ふさわしくなくても大丈夫、ありのままで神様の前に出られるのです。ありのままで出られる理由は、私と神様の間に、完全な仲介者が入って下さっているからです。その仲介者とは、神様が送って下さった、真理である御子、イエス・キリストです。私たちは「イエス・キリストの名によって」祈ります。イエス様が、「私の名によって祈りなさい」と弟子たちに言われたからです*2。

 そうはいっても、日常生活中で、なかなか意識を集中できませんが、少しの時間でも、歩くとき、何か家事をしている時、出来るだけ心の中で神様に語り掛けるようにしています。すると、どんなに不安にさせるようなニュースが日々流れようとも、私は神様の前に、心を安んじていられ、神様への感謝の想いが賛美歌として、心の中で歌えるのが幸いです。

「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。」 第一ヨハネの手紙3章19節

*1 アメリカの教会、Harvet、Greg Laurie牧師による、礼拝オンラインの統計。アメリカでロックダウンが施行された直後の日曜日に、オンラインによる出席者が250,000人以上、続く週は100万人以上のアクセスがあった。”Digital Worship May Create America’s Next Spiritual Awakening",bGreg Laurie* Blog , Apr. 14, 2020より。

*2「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」 ヨハネによる福音書16章23-24節