Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

親子関係

2023年05月03日 | 日記
 今年は、花々の開花が1-2週間早まる程、早い春の訪れとなりました。先日、藤の花で有名なあしかがフラワーパークというところへ母を連れて行く機会があり、雨でしたが、長時間の歩行が難しくなってきた母を夫が車いすに乗せて園内を周り、壮大な藤棚の美しさに母も驚き、喜んでいました。もっと若い時から、両親をあちこちへ連れていけばよかったと今頃悔やまれます。一方、親というのは、子である私が旅行に連れていかなくとも、優秀でなくとも、親の期待に添わない人生を歩んだとしても、親のほうから見捨てることがなく、忍耐を持って見守り、必要な時に助けてくれます。なぜなら、親だからです。個人差はあっても親は子を愛し、大切に思う。子は親を頼る。このような親子関係つまり血縁は切れない強い絆です。「縁を切る」と言われますが、実際親子関係は変えられない事実であり、連絡を絶つことはできても親子という縁は切れません。

 聖書の神様は人間の親子関係のように、私たち人間と人格的な関係を持とうとされていることが記されています。その顕著な表現が「父なる神」です。実際、神に人間のような性別があるのか?というと、ないはずです。性別というのは被造物が持つ性質で、すべての創造主である神は性別を超越された存在であるはずだからです。しかしイエス様も「父よ」と天の父なる神様を呼び、イエス様は「子なるキリスト」と記され、父と子という関係で記されていますから、私たちは聖書が記すとおりに理解し、信じています。一方で、神様を現わすときに母性的な表現の箇所も聖書にはいくつかあり、下記のみことばがそうです。母がその子を忘れないように(忘れることはありえるがと、人間の弱さ、限界も示したうえで)、わたし(主、神様)はあなたを忘れることは決してないと。そして、子供は親を信頼し、従い、尊敬するという面があります。このように、神様を信じるということは、最高で完璧な親がいたとしたら、その親との親子関係を持つことにたとえられるのではないでしょうか。

「関係」には双方向的なコミュニケーションと体験が伴います。私は「父なる神様」と祈る時、「神様は私を守り、導き、愛してくださる方」という思いを前提に祈ります。そして、その祈りが聞かれることで、「ああ本当に、神様は生きていて、働かれている」と実感できることは幸いです。まだ、私が祈ってないことでも「最善の道に導いてくださっていた」と、後から振り返ってわかることもあります。つまり、私の信仰の状態にかかわらず、祈る祈らないにかかわらず、いつも私をケアし、配慮していてくれるという安心感が与えられていることは感謝です。

 私たちの社会では悲しいことに、親からの愛を受けることができずに、自身の子をどう愛してよいかわからず傷つけてしまうという、「負の連鎖」をひきずる親子関係が現実にあります。しかし、たとえ自分の親が良い親でなくて、親子関係でトラウマがある人であっても、最高の父である天の父なる神様がいることをその御子イエス・キリストを通して知り、その神を信頼することが誰でも可能です。一人でも多くの方が、この神様の愛を知って、癒されてほしいと願います。その神様を「知る」ためには、聖霊が知ろうと求める人の理性に、心に働きかけ、一人一人と親しい関係を持とうと望んでおられるキリストを、そして神様を「知る」、「体験する」ように導かれるはずです。シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」 イザヤ書49:14-15

(引用 新共同訳聖書)