Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

還暦のお祝い

2019年01月30日 | 日記
先日、私の友人で中国の方に、中国には還暦のお祝いはあるのかを聞きました。すると中国では親を敬うのは大切なことで、子供は大人になったら親の誕生日、母の日、父の日などにはプレゼントをあげ、彼女の家の場合、還暦や古希の祝いには10段のケーキを用意して大勢でお祝いをすると聞き、驚きました。もちろん、中国と言ってもその地方ごとに、また個々の家族ごとに差はあると思いますが、親を大切にすることの表れとして素晴らしいことだと思いました。また、この度還暦を迎えるという韓国の友人は、子ども達がハワイ旅行に招待してくれるそうです。今は人生100歳時代とも言われるようになりましたが、ひと昔は、どの国でも60年健康に生きられるということは、お祝いに値する長寿だったのだろうと思います。

私は恥ずかしながら、旅行には沢山一緒に行きましたが、費用を自分が負担して旅行に連れていけたことがない娘です。考えてみると、私は親にいくつになっても頼っているところがあり、親に対して孝行が足りないといつも思わされます。では、何か大人になって両親のためにしたかというと、父の仕事で必要なパソコン関係のことは遠隔で手伝ったりはしてきましたが、その他特に何もせずに過ごしてしまいました。還暦のお祝いもしませんでした。一方私の夫は、必ず親に対しての誕生日、母の日、父の日、クリスマスにプレゼントを送る習慣があります。私は結婚前までは母の日くらいにカーネーションを送るくらいでした。しかし、たとえ私が良い娘でなくとも、孝行どころかいつも心配をかけ、ふらふらしていた不肖の娘であっても、私の両親は親として私を愛し続けてくれていることは、本当に自分が年を重ねれば重ねる程感謝しています。

 聖書では、「父と母を敬え」というのは大事な十の戒めの一つとして書かれいます。それが人として大切なことであり、その命令には「但し、こういう親ならば敬わなくてもよい」のような、但し書きもないのです。つまり、たとえ良い親でなくても、親である限りは子は親を敬えという意味です。一方「父たちよ、あなたがたも、子どもたちをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」*とも書いてあります。つまり、親は自分の子どもだからといって、自分の感情に任せて怒ったり、暴力を振るったり、支配してはならず、教育し、しつけをして育てる義務があるのです。

 昨今の悲しいニュースは子供が親に虐待されて命を奪われること、もしくはそのトラウマでその子が大人になって子供を持っても、自分が子どもの時親から扱われたように、自分の子どもを扱うという負の連鎖になってしまうことがあることです。また私が介護関係の仕事をしていた時に、親子関係が良好でなく、親が認知症などにより酷い状態で独りで暮らしていても、その子どもたちは最低限しか関わろうとしないケースもみてきました。一方で、両親の介護のため一生懸命に、愛をもって介護される子供たち、配偶者の方々もおられます。

良好な親子関係、夫婦関係を保つには努力が必要です。しかし様々な事情、環境により限界があります。ではどうしたらよいでしょうか。まずは人間を愛し、人間同士も互いに愛し合ってほしいと願われる神様を信じ、その上で神様がそう命じるならそれがベストだと、その通りに従おうとすることを目指すのが良いのではないかと思います。たとえそれが感情的に不可能でも、神様に願って愛する心を与えて頂き、やろうとする。そうすれば、その関係の中にどんなトラウマ、困難があったとしても、不可能は可能になるケースを多くの方々から観て、諦めずに、それが自分を含めてすべての人々に起こると信じて願っています。

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」出エジプト記20章12節
 

 *エペソ人への手紙6章4節

どんな苦しみにも同情できる

2019年01月25日 | 日記
 苦しみというと、肉体的なもの、精神的なものとあると思います。そして苦しみは個々の主観的体験であるため、人が他者の苦しみにどれだけ共感し、慰めの言葉をかけられるかには限界があります。そして、当人は自分にしかわからない思い、独りで耐えなければならない状態に孤独を感じてしまうものです。

 2004年に公開された映画『パッション』はイエス・キリストが十字架にかけられる最後の12時間を描いた映画で、日本でも話題になり、私はキリストに対する生々しい暴力描写を涙で直視できない程でした。イエスが受けた十字架刑と拷問については、聖書は詳細は記していませんが、この映画で描写されたと同等かそれ以上に残酷であったと言われます。イエスはその肉体的な苦しみだけでなく、精神的苦しみもありました。当時のユダヤの人々から救世主と期待されていたため、それをねたむ支配階級たちの操作により人々からも憎まれ、嘲られ、ご自分の弟子たちからも裏切られ、見捨てられました。そして神に対しても「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」と叫び、一人孤独に十字架上で息を引き取られたことが記されています。神である方が人となって生まれ、およそ人が受けうる全ての苦しみ、痛みを人として経験されたからこそ、イエスは人のいかなる苦しみに同情できる方だと下記の聖書の箇所は語っています。

ある方は何年も続く家族内の問題で苦しみ、いっそ死ねたらと絶望に至ることを繰り返されますが、それでも信仰がその方をなんとか支えています。私はただその方の話を聞き、心を痛めて共に祈り、神様に委ね続ければいつかこの試練を乗り越えられると励ましています。誰も頼る人もいない、皆から責められているように思えてしまう追い詰められた状況を涙ながらに語る中で、突然、その方から驚きの言葉がでてくるのです。

「でも、イエス様は十字架に架かった時、もっと孤独で、虐げられて、苦しかったんだろうなあと思って。。。」。

 私はすかさず「そうだよ、だから、人は分かってくれない~さんの痛み・苦しみをイエス様は全てわかってくれて、助けようとして下さる、だから依りすがることが出来る神様なんだよ、そして必ず先の道を示しくださるよ」とそのことを記す下記の聖書のことばと共に伝えました。

キリストの十字架の受難とその意味は、書物や映像ではある程度は理解できるでしょう。しかし、自分自身がある苦しみを通過して初めて、心の底から理解し、慰めが与えられます。またこれが何のための苦しみなのかが自分に迫ってくるのではないかと、その方の発言から思わされました。そして、キリストは死んで終わりではなく、3日後に復活されたこと。これがあるからこそ、今も生きて私たちのために働かれ、動いておられる神だと信じることができます。そして私たちを愛するがゆえに通られたキリストの苦難に感謝し、たとえ今の状況が苦しくても、乗り越えられる力を与えられると信じます。今苦しみを通過している方々に対しても、自分に対してもそれがおこることを。


「この大祭司*は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」  ヘブル人への手紙4章15-16節 

  *「この大祭司」とはイエス・キリストのこと 

他人との比較

2019年01月15日 | 日記
「あなたはカッテキですね」と、教会である方から言われました。カッテキとは、韓国語で大根キムチを意味し、また便利屋のように色々用事に使える人のことを言うそうです。私は何でもできないけど、とりあえず出来る範囲で、やる方がいない場合に、便利に使ってもらえればいいと思って喜んでしています。教会では通常、皆で礼拝や運営のために、奉仕として役割分担しています。ここではそれぞれが自発的に、出来ることを完璧ではなくても担当し、支え合うことで成り立ち、かつ、その人の才能や出来る事に関わらず、たとえ何もしなかったとしても、そのままのお互いを認め合い、助けあうべきところです。私がカッテキなのは、夫の職務柄、誰かが急に予定していた役割が出来ない時、私が代わりにするのが一番頼みやすいということもあります。

 教会外では、上を上をと目指して競争し、最高のもの、完璧を求められる社会(会社や組織、芸術界)ですから、その物差しで測れば私の出来ることはその場限りで、誰でもやろうと思えばできるレベルのことです。もし私が、自分の持っている能力、才能や持っている資産、人がどう評価するかで自分の価値を見出そうとするなら、私は無価値な人間でしょう。

 一方、人間の比較というのは、誰と比較するかで異なる、主観的な事であります。スポーツ等で競争相手と比較し、相手に負けまいという動機でさらに腕を磨く、頑張ることが悪いこととは言いません。しかし、私にとっては他者と比較することは意味がないと、ある時から悟りました。それ以来、人と自分自身の才能、性格、体型等でもって自分に価値を見出そうとすることを止めました。すると、不必要な落ち込みや、優越感を持つことなく、人をうらやましいとも思うこともなく、とっても自由になり、今のありのままの自分として与えられているものを神様に感謝出来るように徐々に変えられてきたようです。また誰かと比較しなくとも、必要であれば、そのことをする上での能力も、機会も与えられてきました。つまり、私は全てのことは、自分で努力して勝ち取るというより、神様から与えられていること、恵みとして受け取っています。

イエス・キリストは、2千年前の当時、弟子たちと共に生活されて、宣教活動をされていました。弟子たちの間で、だれが一番偉いかという論争があったと聖書は記録しています。そんな弟子たちにたいして、イエス様は「誰でも偉くなりたいと思うならが、人に仕える者となりなさい。」と言われました。そして、神の子であるイエス様は、地上にいる間に徹底的に人々の必要に低くなって仕えられ、最後は人々の罪の代わりにご自分が犠牲になって十字架刑にかかって死なれたほどです。

イエスが十字架で死なれ3日後に復活されてから、弟子たちに現れた時も、まだ他の弟子と比較し、「この人はどうなんですか?」と質問したペテロという弟子がいました。するとイエス様は「それがあなたに、何のかかわりがあるのか? あなたは私に従ってきなさい。」と言われたのです。イエス様はあくまでも、人のことより、自分自身と神さま・イエス様との関係の中で、自分の心を探り、もし主として信じるのならば、周りがどうであれ、「私に従いなさい」と言われておられるようです。そして、私に価値があるかどうかは、私の能力や性格、神の為に奉仕をする(善い行いをする)の有無にあるのではなく、ただイエス様は私が命を得るために、代わりに死んで下さったほどに私に価値を見出して下さり、大切な存在として愛してくれていることから来ていると信じています。そうはいっても、まだまだ私は100%人を意識しないでいられない時もあります。そんな時は、今日の箇所を思い出し、比較することをやめ、私に価値を見出して下さるイエス様に従っていきたいと思うのです。


「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 」 ヨハネによる福音書21章22節

癒やしを求めて

2019年01月15日 | 日記
多くの方は心の癒しを求めて、癒しを与える存在を色々探します。先日、ある方々との会話のなかで、犬といると癒されるが、人間といるとイライラする方がいるという話を聞きました。ある人は、夫といるより、ペットの犬といた方がよいと言われていました。ペットは確かに、何も言わず、寄り添ってくれて、見た目もかわいいので、ある程度は癒されるかもしれません。ある高齢者施設では、アニマルセラピーを取り入れ、施設で犬を飼い、利用者が心を和ませることが出来るようにしているそうです。私は個人的には猫が好きで、猫が座っているのを見るだけで心が和みます。しかし心を癒してくれる存在としては、ペットでは限界があると思うのです。ペットも寿命があります。いつまでも一緒にいてくれないし、根本的解決を私に与えてはくれないでしょう。


 聖書には、神様がどういう性質を持つ方が沢山書かれています。今朝読んだ箇所から、神様(”主”と示されています)はわたしを癒してくれる方だと示されていました。ある人々には、慰めを与え、励ましてくれる家族や友人が傍にいますが、頼れる人が誰も傍にいない場合もあります。以前私は落ち込んで、身体的にも精神的にも苦しい時、家族や友人がいたとしても、自分の気持ちを100%分かってもらえないもどかしさもあり、結局人は頼りに出来ないという思いをしたことがあります。それは、孤独で辛い経験でした。

 しかし、かえって孤独の中で、神様だけに助けを祈ることに集中できたことは幸いでした。神さまは目に見えなくても、いつも私と共にいてくれて、私の状態、心の嘆きも知っていてくれる方です。そして、すぐに答えが来なくても、必ず祈りは聞かれているという信仰だけは与えられ、実際何度も落ち込んだ状態から、再び立ち直らせて頂いたのは、本当に感謝です。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい、そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイによる福音書11章28-29節) イエス・キリストがこ言われました。つまりイエス・キリストのところに自分の抱えている問題(重荷)を持っていけば、休みが与えられるはずです。そして休んだら終わりでなく、イエスから学べば心がやすらげるとの約束がかいてあります。なぜなら、イエスのところで、癒されて、休められると、たとえその問題が暫く続くとしても、それに耐えられるような強さが与えられ、イエスから他者を愛し仕えることを学べるからです。

今年もこの、癒して下さる神、そして学ばせてくれて、平安を与えて下さるキリストに委ねて行きたいと、聖書の言葉をとおして励まされ、新しい年を歩んでいきたいと願います。


「・・・わたしは主、あなたを癒す者だからである。」   出エジプト15章26節