Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

野の百合とかげろう

2020年07月25日 | 日記
 忙しさにかまけて、暫く近所の森から足が遠のいていたうちに、季節は春から夏へ移り変わっていました。森に入ると、野の百合があちこちに咲き、セミの声が響いていました。野百合はお店で売られている整った美しさの百合と比べると、何か力強い自然の美しさを感じます。野の百合について、イエス・キリストが下記のように言われているのも改めて納得できます。「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花(野百合)の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」*1 すぐにしおれてしまう草木だとしても、神が自然に美しく着飾ってくれるのであれば、尚更、人間である私たちを神が心にかけないわけがないので、何も心配しなくてもよい、くよくよ思い煩っても寿命はのびることはないでしょうという文脈です。

 久し振りの森の散歩は変わらず静かで、心地よく、人とすれ違うこともほとんどありません。森の薄暗い中に、見た目はカゲロウのような黒いものがひらひらと優雅に飛びかい、とても神秘的でした。後で調べて見ると、ハグロトンボというそうで、その飛び方は蝶のようで、留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じて止まります。かげろうというと、「はかなく短い命」の象徴とされています。これはかげろうが、成虫になって1日で死んでしまうことからだそうで、カゲロウの仲間を意味する学名「Ephemeroptera」は、「1日」という意味と「翅(はね)」という意味のラテン語から作られた造語だそうで、古今東西、かげろうのイメージは変わらないようです。

 自分の命がどれだけか、長いか、はかないかを意識することは、その人の生き方に反映されると思います。若い時、そして健康に何も問題がない時は、人生の長さなど考えることもなく、いつまでもこのままが続くと思います。しかし、晩年になってくると、また若くても大きな病気を経験すると、当たり前に思っていたことがそうではないということに気がつかされ、逆に一日一日を大切に生きようという思いが強くなるものです。なぜなら、いつこの命が終わるかわからない、もしくは限られているという意識をもつことで、残された時間を大切にし、また、特別なことをしたい人はしてもよいですし、いつも通りに生活することにおいてもそこに価値を見出すことが可能です。もちろん、余命宣告をされた場合、すぐには前向きにはなれません。怯えたり、恐れたり、嘆き悲しむことはノーマルな感情です。誰でも、そのような感情の過程を通った後、最終的に平安な気持ちにたどり着くことができれと願います。

 キリストを信じる者にとっては、この体の命のはかなさを知り、価値を見出すだけにとどまらず、その先に待ち望むものがあります。下記の、詩編という詩を書いた古代イスラエル時代のダビデ王は、自分の命のはかなさを知り*、また世の中に悪がはびこり、自分の命が狙われている状況を神様に訴えつつ、最後には神様にのみ望みをおくと宣言しています。このように、現代に生きる私たちにとって、望みとはキリストであり、キリストを信じる信仰を通して、死んだ後のことに対しても希望が与えられています。それもただ天国で魂がふらふらしているのでなく、天の国で何かを相続する、つまり神の子供としての特権があり、また罪のない永遠に生きる新しい体が与えられ、神様とづっと過ごせるという約束が書いてあり、たとえそれが漠然とした把握であっても、待ち望むことが出来るからです。もはや罪がお互いないということは、この世の中のようではなく、もはや悲しみも嘆きも、戦争もなく、平和だということですから、それがいつになるかは知らされていませんが、その新しい世界を待ち望みたいと思います。同時に、今与えられているこの体における地上での生活において、日々神様に感謝しつつ、この喜びの福音(グット・ニュース)を知らない人々に伝えていきたいと思います。

「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。 」 詩編39編7節


*1 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 マタイによる福音書6章27-30節
*2「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。」詩編39編4-5節

弟子が師に習う

2020年07月24日 | 日記
 「私は聖書に今日初めて触れ、話を聞いていてもちんぷんかんぷんだった。けれど、一つ興味深かったことは、キリストにはお弟子さんがいて、そのお弟子さんを派遣する時にちゃんと指示を与えて送り出していたということです。」私たちの教会では、毎週木曜の夜に聖書に親しむ会というのを開いていますが、これは初めて参加された方が言われたコメントです。この会では新約聖書の最初から順番に夫が解説しています。初めは夫婦二人だけでしたが、最近は教会のチラシを見て、聖書に興味を持ってきてくださる方、他教会の信徒の方が参加されています。そして今回は、その方のお友達も一緒に参加されました。その方曰く「彼女は無神論者なんだけど、面白いグループが益子にあるからと、連れてきたんだ」。その方が「面白いグループ」と思って参加してくれているのだと聞いて、私はとても嬉しく思いました。なぜなら、日々夫と、「新しい人を教会に送って下さい」と祈っているので、来る人数は少なくとも、確実にお祈りは聞かれているんだと、とても励まされるからです。

 「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。」*1とイエス様が言われたところを、今回の聖書の学びで触れました。これはある意味、一般社会では、当てはまらない事柄かもしれません。なぜなら、様々な師弟関係において最初は弟子は先生のもとで見習い、訓練され、そのうちある人は才能を発揮し、師以上になることもあるからです。そして今度はその人が師となって、次の世代のお弟子さんを訓練していきます。しかし、イエス様がいう天の国の世界では、神であるイエス・キリストという先生を私たち人間が超えることはなく、完全にまねることもできません。しかし、少しでもそれに近づけるように求め続けること、実はそのことさえ難しいのですが、聖霊の助けによって、イエス様の愛の心そして行動に近づこうとする、それで十分だと、イエス様は言ってくれているようで、出来の悪い私はとても慰められます。

 キリストから習うべき事柄で、最も大切なのことの一つに「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」*2とあります。神様の持っておられる愛の基準は、人間の能力を超える程高く、誰もそれを完璧にクリアすることができません。例えば、自分に敵対する相手を恨まずに、相手が神様に祝福されることを祈ること、親切にすること、赦せない相手を赦そうとすること、自分を犠牲にして相手のために何かすること。これらは特に人間関係において、簡単に出来ない、場合によっては不可能なことではないでしょうか。しかし、師であるキリストがこれらの愛を私たちに対して既に行って下さり、また今も、これからもこの愛で愛し続けて下さります。この愛はキリストの十字架に現わされています。

 キリストを信じ、従っていこうと思う者は、たとえ私のように失敗が多い弟子であっても、決して見捨てられることはなく、愛されているという安心感が与えられていて、このことは心の支えであり、大きな励ましでありす。この世で生活している限り、辛いこと、うまくいかないこと、悲しいことがたくさんあります。しかし神の子であるイエス様ご自身は、人としてこの世に来られた時、もっとも過酷な状況を経験されて、十字架を忍び、今は復活されて天国におられ、私たちのために日々生きて働かれておられることを覚えて、師であるイエス様を仰ぎ見て、イエス様に習って喜びを忘れずに、人生の道をゴールに向かって走り続けていきたいと思います。そのルートは長距離で、途中転んだり、歩いたり、止まってしまうこともあるかもしれません。しかし、私がその走るルートから外れないよう日々導いて下さっている神様を信じ、与えられている恵に感謝しつつ一日一日を過ごしていきたいと思います。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」ヘブル人への手紙12章1-2節

*1 マタイによる福音書10章25節
*2 ヨハネによる福音書15章12節

家庭菜園:ナス、トマト、そして オリーブ

2020年07月19日 | 日記
 プチ家庭菜園を始めました。性格的にまめにではない、初心者の私たちは、手がかからないナスとトマトの苗をプランターに植えました。今年は雨が多く、6-7月の日照時間が少なかったにも拘わらず、見る見る大きくなり、実のサイズは小さいですがたくさんなり、それを取っては食卓で楽しんでいます。教会の礼拝に参加されている農家を営む方より「肥料をやるといいよ」とアドバイスを頂き、土の上にそのまま散らすだけの簡単な肥料を月に一度くらい足しています。

 もう一つ、益子に引っ越した時にお祝いに頂いた小さなオリーブの木を、教会の正面玄関のサイドに植えました。これも順調に成長しています。オリーブの実がなるにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、オリーブの木に関しては実を食べることより、その木の成長自体を楽しみにしています。なぜなら、その木は益子での伝道活動を始めた記念に植えたということで、その木に教会の成長に重ねて、思いを込めて神様に祈っているからです。

 その昔、地上に人の悪が増大し、神様は大洪水を起こしましたが、ノアとその家族、そしてつがいの動物たちだけを40日降り続いた雨の中、箱舟の中で生き残らさせました。雨が止んで水が引き始めた時、一匹の鳩を箱舟の窓から放つと、オリーブの葉っぱを加えて戻ってきたとあります*1。これは全て水浸しになっいていた陸に草木が生え始めた、つまり大洪水が終わったことの証拠です。以来、鳩がオリーブの葉を加えているモチーフは、平和の象徴として知られています。また、イエス・キリストの生涯において、彼が洗礼を受けた時に、天が開いて鳩のような形をした聖霊が天から降りてきたと記されていて*2、よって鳩は聖霊をあらわす象徴でもあります。

 下記の聖書の箇所にあるように、イエス・キリストご自身が平和そのものであり、人と神との和解をもたらす方であると記されています。すると、イエス様がこの世に来られる何千年も前のノアの洪水の時代に、すでに平和のモチーフである鳩がイエス・キリストの到来の予表として示されていたのではないかと、ふと関連づけてしまいます。聖書の中には、数字やある物がシンボルとして様々な意味を表している場合があります。聖書自体の一つ一つの書簡が時代も異なり、書いた人も異なるにも拘わらず、一貫して神様の人類の救いに対する計画が歴史や預言書、詩を通して示されていることは驚きであり、奥が深いです。人間が聖書を編集したつもりでも、神様の救いの計画が時代や民族を超え、内容も変わらず、全世界に語り継がれているのは、その背後に神様が編集者として働かれているからでしょう。

 一方、オリーブの実は、圧縮すると油が出て、古くからオリーブオイルとして食用、香料、点火用など人間の様々な生活に用いられています。イエス様はゲッセマネの園という場所で、十字架に架かる前に苦しみ悶えて祈られたと記されていますが*3、ゲッセマネは「オリーブの油搾り」という意味で、その園にはたくさんのオリーブが植えられていたからではと言われています。オリーブの実は潰さなければオイルが生成されることはありません。このことは、人と神様との間の平和の為に、人同士の平和がもたらされる為に、イエス様ご自身の身が圧縮されるほどの苦難と死を経験しなければならなかったことをゲッセマネの園はシンボル的に指し示しているのではないでしょうか。ノアの箱舟の後、再び人類は人口が増え、人の悪がはびこり、人の間にはいつも争いがあり、神様と人との間に罪という大きな隔たりができてしまいます。しかし、2千年前に、究極的に人に平和がもたらされるために、神様はイエス様の十字架の死という犠牲を成就されました。そしてイエス様が死から3日後に復活されることで、私たちもこのイエス様の救いを信じて新しい命を頂き、聖霊の力により新しく生きることができ、平和も与えられると聖書に約束が記されています。この救いの約束を信じ、イエス様にある平和を求めつつ、地上での生活を過ごしていけたらと願います。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」  エペソ人への手紙2章14-16節 
  

*1 「はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。」 創世記8章11節
*2 「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 マタイによる福音書3章16-17節
*3マタイによる福音書26章3節、ルカによる福音書22章39-44節

聖書と国家機密レポート

2020年07月12日 | 日記
  「私は毎朝、二つ読む物がある。聖書と国家機密情報レポート。この二つを並べ置くことは非常に難しい。しかし、主が私にアメリカの人々を保護するために、これらの挑戦に正面から取り組むための知恵と忍耐力を与えてくれることを願い祈っています。」この抜粋は、アメリカ国務長官のマイク・ポメオ氏は、5月24日に流されたアメリカの牧師、グレッグ・ローリー (Greg Laurie)師*とのインタビューで言っていたことです。ポメオ氏はトランプ大統領政権で重要な役割を持つ人だと思います。次の大統領選挙を控え、クリスチャンの多いアメリカ国民に影響力のあるメガ・チャーチの牧師とのインタビューに応じることは、政治的意図があるとも察します。そうであったとしても、私は彼は嘘は言っていないと思うのです。あくまでも私の個人的見解ですが、アメリカの現政権で唯一、まともに見えるのはこのポメオ氏だけです。いずれにしても彼は立場上、非常にストレスもあり、頭の中を24時間回転させても足りない程の大変な職務についていると思いますが、それでもやって行けるのは、日々聖書を読んで、力を得ているからではないかと、このインタビューからも思わされました。

 一部の報道により誤解が多いのですが、アメリカのキリスト教の教会、特に福音派と言われる人々皆が現大統領を支持しているわけではありません。そのことは統計上明らかですし、私のアメリカ人のクリスチャンの友人でも、二手に分かれます。おそらく、ある人々は性格や人格的には現大統領に同意できなくとも、今建てられている国のリーダーだという理由で、聖書が言う通りに彼の為に祈っていて、それが政権支持という形に現れているかもしれません。私はアメリカに住んでいた時、このグレッグ牧師と同じグループのNYの教会に通っていました。NYの教会(Harvest Christian Fellowship NY)は、彼の教会の様にメガチャーチではなく、むしろ一時期より人数が減っていました。私がいた頃はちょうど、長い間借りていた礼拝場所もリースを終了され、小さい雑居ビルに移らざるを得なくなったという困難な時期でした。私たちはそれでも、教会の為に祈り、礼拝を捧げていました。人数が少なくなっても、グレッグ牧師は何度か、ゲストスピーカーとしてNYのHarvest教会にメッセージに来てくれていたことを思い出します。

 今特に、日本の政治家達の為に日々祈っています。彼らはクリスチャンではありませんが、彼らに神様の知恵と忍耐力が与えられて、国民を守り、今そこにある国家的危機に対する妥当な政策を打ち出せるように。自然災害、ウイルス感染拡大という、科学や人間のコントロールしえないことに対して、私たち人間が、己の弱さ、限界を認め、全てを創造され、コントロールしておられる神様に祈り求め、キリストに出逢えるよう、そして心に平安と恵が与えられるよう、祈って行きたいと思います。神様は求める人には、必ず与える方だと、聖書に約束されています。それは物質的なものだけに限るのでなく、信じる心、信仰も与えられます。神様を探せば見出すことができる、そして、閉じている門戸は神様により開けてもらえるからです。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」マタイによる福音書7章7節

*Greg Laurie (グレッグ・ローリー )は、アメリカの伝道師、ハーベスト・クリスチャン・フェローシップ教会の主任牧師。毎年アメリカ各地のスタディアムで、大規模な伝道集会を行い、多くの人がキリストを信じている。
  

ラテンの人から学んだこと

2020年07月05日 | 日記
 20年前のことです。スペイン在住の日本人の友人を訪ねるついでに現地の語学学校に2週間、観光で2週間というプランを建てて、独りでスペインへ行ったことがあります。ホームステイでお世話になったスペイン人の方から気付かされたことがあります。ホストファミリーのご主人がこういいました。「日本人は働くために生きるんだろう?わしらは違う、働くために生きているのではなく、生きるために働くんだよ!」(”trabajar para vivir y no vivir para trabajar”) 日本人はラテンの方々からすると、なぜそんなに働くのかと不思議がるほど勤勉なのでしょう。彼らは仕事は生活の為にするけれども、あくまでも仕事は生きることを楽しむための手段と割り切る人が多いようです。最近の動向は知りませんが、おそらく、これが彼らの仕事と人生に対する考え方の根底にあるものなのでしょうか。一方、人種的傾向性に関わらず、仕事をいい加減に、無責任に行うことは、常識的に許されない世の中です。なぜなら、お給料を支払われている限り、それに相当する労働力を提供するという契約社会の中に私たちは生きているからです。しかし、まじめに仕事していて、過剰な仕事の責任感に押しつぶされ、心の病を患ったり、過労死してしまったら、一体だれがその人の命の責任をとるのでしょうか。

 「仕事が出来なくなったら終わりだよ」病気になって、今迄の仕事が出来なくなったある日本人の方がこう私に言われました。そしてその方は絶望の中にいて、私がいくら励ましの言葉や、仕事だけが人生ではないし、生きていること自体が大切であることを言っても、耳を傾けてくれなかった、という悲しい経験をしたことがあります。仕事が生きがい、プライドとなることは良いことですが、それが全てになってしまうと、ラテンの人曰く仕事の為に生きている人生となります。もちろんそれ自体が良い悪いの問題ではなく、個々人の価値観だと思いますが、どんな人種でもどの職業についていたとしても、仕事より命、生きることの方が優先順位が高いと思います。

 仕事より人生を楽しむ、もしくは仕事が人生と、どちらか偏りすぎると、様々な問題が起こります。私は感謝なことに、キリストを信じて新しく歩もうと決めた時から、生きることへの価値観が変わり、これらのどちらにも偏らない、もっと大切なこと:キリストのために生きるという目的が人生の優先順位として与えられました。聖書では、勤勉に働くことの大切さが書かれています。例えば、2千年前すでに「この世の終わりがくる、キリストが再臨する!」と騒ぎ、どうせ終わりが来るなら働くのを辞めようといったクリスチャンがいました。それに対して使徒パウロは、きちんと働きなさいと下記の聖書の箇所にあるように戒めています。また、家々を回りゴシップをばらまく若い未亡人のクリスチャンが当時いたようですが、その人たちにもパウロは注意をしています*1。


 聖書では困った人の救済をし、慈善、施しをするようにも書かれています。ですから、心身的に病気があって働けない人は、社会の福祉的な恩恵を感謝して受け取られれば良いですし、働きたくとも働けない状況もあります。私も職がみつからない時期、病気で働けない時期などが過去あり、いつも働けていたわけではありませんでしたが、その時その時、周りの方々に支えて頂き、神様は私を養ってくださいました。また、この仕事をしてはならないとか、この仕事の人が素晴らしい、といった細かいことも記されていません。従って「互に愛し合いなさい」というキリストの教えから類推し、法律を犯したり、他者を傷つけたりするような仕事でない限り、その人が出来る仕事であれば、どんな仕事でも良いのです。すると、信仰生活が健全に日々続けられるという優先順位だけを残し、仕事を選ぶことにおいて、これでなくてはならないというこだわりが削られ、またことさらに或る職種を称賛、もしくは見下すこともなくなります。お給料に換算されない働き、例えば家での家事、子育て、ボランティア活動も仕事です。
 大変な、辛い仕事をしている方々に対して、日々感謝の念を持つことも大切であり、特に今の時期は、医療従事者の方々のために健康が守られるよう祈りたいと思います。信仰を第一優先にすれば、食べる者も与えられ、必要は満たされる(つまり仕事も与えられる)*2とイエス様は約束されているので、生活のことは思い煩わす、安心して、神様に様々なことを祈り、導きを求めていきたいと思います。

「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。 」テサロニケ信徒への手紙 第一 4章11-12節


*1「その上、彼女たちはなまけていて、家々を遊び歩くことをおぼえ、なまけるばかりか、むだごとをしゃべって、いたずらに動きまわり、口にしてはならないことを言う。…反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい。」 第一テモテへの手紙5章13-14節
*2 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイによる福音書6章33-34節