Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

普段の生活の中での神様との対話

2023年01月14日 | 日記
 最近、ある牧師さんと話していて、はっと気が付かされたことがあります。彼女はとても多忙な方で、それにも関わらず、月に一度、遠方から私たちの教会で開催している「親子ゴスペル」の講師として来てくださっています。彼女は「家事をしている時も、礼拝説教の準備のための、黙想しているのよ。時間がないからね」とさらっとわれました。その言葉を聞いて、私は自分が家事をしている時、何を考えているかと問うてみたのです。人と比較するのは意味がないことですが、他者から学ぶこと、気づきを与えられることは大切です。どんなにやることがあっても、たとえ教会のためで、もしくは仕事のためだとしても、生活の中の根底に神様との対話をしていなければ、つまり主が共にいるという臨在を感じていなければ、心に平安を保てないのは当然だと思わされました。 

 ブラザー・ローレンスという17世紀の修道士がいます。彼は「敬虔な生涯―ふだんの生活の中におられる神」の著者です。私は若い頃、この本を読むことを勧められ読んだことがあり、しばらく忘れていましたが、この牧師さんの言葉を聞いて今一度思い出しました。ブラザー・ローレンスは修道院の厨房で下働きをしていましたが、仕事をしながらいつも神様の臨在を感じることができたそうです。食器を洗うという動作一つ一つの中に、神様に対して喜んで行うという思いを込めていたと、つまり神様と対話しながら働いていた様子がこの本に記されています。彼は当時の修道院で、神学を学んだ社会的に地位の高い修道士ではなかったので、修道院では雑用、労働作業を担当したようですが、もしかしたら、その当時の中世の宗教社会の上層部の方々よりも、神様と共に歩んでいたのではないかと思います。

 古代イスラエル王のダビデは、若い時に羊飼いをしていた時から、神様を愛し、神様をいつも感じ、そのことを詩編として残してたのが、下記のみことばです。
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り 
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。」  詩編27編4節

 ダビデの人生は波乱万丈で、多くの成功、そして失敗もありましたが、生涯神様への信仰は失いませんでした。それは、いつも神様と対話していたからではないでしょうか。だからこそ、彼にとって多くの問題、たくさんの願いがあったとしても、それらを全て覆う、根本的な一つの大事なことだけを願い、求めようと、自分自身にも語りかけていたのではないかと思います。「宮」とは神様のおられる場所、つまり神様の臨在するところ、そこにいつもいたい、喜びをもって朝を迎えたいと。神様の臨在を感じるところは、物理的な場所を示すのではなく、自分の心の内側のことなのです。

 パウロは、聖霊の住む宮は私たちだと言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」コリントの信徒への手紙13章16節

 神の霊、つまり聖霊が信じるものの心に与えられているので、その聖霊を通して神様の臨在を感じ、対話できるとは、なんと幸いなことでしょうか。

 現代社会の中で、キリストを信じる信仰を貫いて生きようとすると、力が入りますし、覚悟のようなものがいるように思いがちです。また心が忙しく、平安がないのに、表面だけ、言葉だけクリスチャンのようなふるまいをしても偽善となります。私は、もっとみ言葉を読み、手を動かしながら、歩きながらも神様に祈り、対話していけるよう、神様に求めていこうと思わされました。この、文章を討ちながらも、「神様、気づきを与えて下さりありがとうございます!」と。それが、私にとって生きる上で最も大切なことであるからです。

 (引用:新共同訳聖書)

神の小羊

2023年01月08日 | 日記
○ 神の小羊 Jan. 2023
    
ヨハネによる福音書1:29-34

本日は、「神の小羊」と題してメッセージをさせていただきます。

  まず、洗礼者ヨハネがイエス様のことを、「世の罪を取り除く神の小羊」と証言するまでの文脈について確認したいと思います。洗礼者ヨハネは、母エリザベトの体内にいる時から聖霊に満たされ、「準備をできた民を主のために用意をする」(ルカ1:17)という存在になると天使ガブリエルにより予告されていた人です。神の子、主イエス様の地上での救いの業のために、彼はその準備をする役割として生まれてきたのです。彼が、本日の箇所の直前のヨハネ1:19以降 で律法学者、パリサイ人達から遣わされた人たちより「あなたはだれですか?」と質問され、預言者イザヤの言葉を用いて自分が何者であるかをこう言い表しました。 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(1:23) 自分はメシヤでもなく、あの預言者でもない、荒れ野で叫ぶ声だと答えています。

    洗礼者ヨハネは聖霊により、自分の役割を知っていたし、どういう方がメシヤであるかを知らされていたので、イエス様に洗礼を授けた時、この方だとわかったのです。霊がハトのように下る人を見たら、その方が聖霊によりバプテスマを授ける人だと。そしてその方は、神の子であると証しをしました。このような文脈で、洗礼者ヨハネの前にイエス様が再び現れた時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と彼は証言します。
 
では世の罪を取り除く神の小羊 とはどういう意味なのでしょうか。
     
   神の小羊にまつわる出来事は、旧約聖書で二つ記されています。そしてこれらが、あらかじめ神様が救いの計画を指し示すこと、つまりイエス様の十字架の罪の贖いを前もって示しています。一つ目は、アブラハムがイサクを捧げた出来事です。旧約聖書で創世記22章のアブラハムが神様によりイサクを焼き尽くす捧げものとして捧げなさいと言われたところです。旧約聖書で、神様への動物の捧げものについて、最初の人間アダムとイブの子供のアベルが小羊を神様にささげ、神様がその捧げものを目に留められたと記されています。以来、神様に人間が動物を捧げ、それを神様が受け入れられていたという歴史があります。こうしてアブラハムも以前から、神様を礼拝する際に捧げものとして小羊を捧げていたので、アブラハムの子イサクはそれを知っていて、二人でモリヤの山へ向かう時に、小羊がないのに気ずいてアブラハムに尋ねました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」そしてアブラハムはこう答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
    
   私はこの箇所を読むたびに、アブラハムがどんな思いでこの言葉を言ったのかと心が揺れます。いくら神様の命令だからといって、自分が100歳になってようやく与えられた大切なわが子イサクを、焼いて捧げなさいと言われ、どれ程苦しんだことでしょう。そして、寸前まで誰にも知らせずに、イサクを連れて山へ登る途中に、こんな質問をされた時、どんなに心が引き裂かれるような思いだっただろうと。そして、実際、山の上で、わが子を縛って、祭壇に乗せ、剣を振り上げる寸前までの行動をどんな苦しい思いで起こしたのか。その一方で、アブラハムは必ずイサクは死なずに済む、もしくは死んだとしても生き返る、何らか方法が神様にはあると信じていたからこそ、このことば「小羊はきっと神が備えてくださる。」を言えたのではないでしょうか。このアブラハムがイサクを捧げるように神様が命じられ、実際は捧げられず、寸前で神様のストップがかかり、雄ヤギが捧げものとして神様がその場で与えられた、このことはまさにイエス様の十字架をあらかじめ示すための出来事でした。つまり、神様が独り子イエス様を捧げもの(小羊)として捧げることの型を、アブラハムとイサクという親子を通して示されているとされます。

また私はこの箇所を読むたびに、天の父なる神様が、人間を救うために、ご自分の独り子であるイエス様を犠牲に捧げられる時の心の痛みを思います。いくら死んだ後、復活させられるとはいっても、イエス様の経験しなければならない苦難、十字架の死、そして特に今まで神様と子なるイエス様は今まで「一つ」であったのに、全人類の罪を負って死んで黄泉に下られたときは、断絶されたことを考えると、父である神様の心痛は量りしれません。つまり、神様の御子を犠牲にされた時の神様の心を、最小限の程度かもしれませんが、アブラハムの心によってあらわしていると思います。

     次に、旧約聖書で小羊が登場するのが、出エジプトの時です。エジプトで奴隷となって苦役で苦しんでいたイスラエル人は、神様がモーセをリーダーとして立て、かれらをエジプトから脱出させます。エジプトの王パロは神様により何度も災いがエジプトに起こっても、かたくななで、奴隷という労働力を失いたくないため、イスラエルの民をいかせようとしませんでした。とうとう最後の災い、エジプト中の初子が討たれるという事件が起き、モーセにエジプトから出ていけと言います。その初子が討たれる夜、イスラエル人はモーセを通して言われた指示に従い、入り口の鴨居に小羊の血を塗っておいたので、その血を見て、み使いが過ぎこしていったことから過越しと言われます。つまり過越祭はそのことを記念するため、毎年ユダヤ人の間で神殿があった時代には小羊が屠られ、民の人口の分だけ(人世帯に一頭)小羊が屠られていました。神殿が崩壊してからは、ユダヤ人は全世界に散らされて住んでいますが、今でも過越しのお祝いを家族ごとに集まって、食事と共に行っています。

つまり小羊とは人の罪が赦されるための神様への捧げもの。しかし動物の捧げもの自体は罪を取り除くことが出来ない。その都度繰り返し、人が犯した罪の代わりに動物が捧げられ、そのことで罪が赦されてきました。しかし、この神の小羊、つまりイエス様が十字架でご自身を捧げられたのは、ただ一度だけで、世の人々のすべての罪を取り除くことが可能でした。そのために神様に捧げられたのです。神の子であるイエス様は救い主であり、捧げもの自体であるのです。そして、神様はこのイエス様の十字架を示すため、あらかじめイスラエル民族の出エジプトということを歴史上で起こされたのです。
       
     過越しの小羊の骨を折ってはならないという定め(出エジプト12:46)があり、それもイエス様が十字架刑で処刑される人は通常、足がおられます(脛を折ると、体重が下にかかり、心臓が破裂させられ、息を引き取るので、処刑を終えるため)。しかしイエス様は早くに十字架上で息を引き取られたので、脛を折られずに十字架から降ろされたことが福音書で記されています(ヨハネ19:31-33)。この定めもイエス様の十字架で実現されているのです。
      
        また、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山と同じ場所に、イスラエルの王ソロモンは神殿を立てたと聖書にしるされています。(歴代誌下3:1-2)。イエス様の当時では神殿の東側(糞門)の外側に罪のためのいけにえの羊が焼かれる場所があったそうです。イエス様が十字架にかかられたゴルゴダの丘の本当の場所は神殿の東側にあるオリーブ山附近で、多くの墓があるギドロンの谷の方向だとする見方があります。正確な場所かどうかは置いておいても、神様はイエス様の時代の2千年ほど前から、同じ場所モリヤの山に立てられた神殿で、罪のための小羊が屠られてきた、そして神の小羊であるイエス様も同じ場所で、十字架で死なれるように計画されていたのです。
      
     そして、アブラハムから起こされたイスラエル民族が、エジプトで奴隷となっていた状態から解放されたこと、つまり過越しの小羊がイスラエルの民を奴隷から解放した出来事のしるしであるとすれば、イエス様の十字架の死は人類を罪から解放し、自由を得させる出来事なのです。(ヨハネ8:32 13:6)

  私たちは、イエス様の救いを信じるまでは、自身が奴隷状態だということに気づかないで生きてきました。実際、イエス様の時代のユダヤ人もイエス様に対して、自分たちは奴隷でないし自由であるといっています。ヨハネ8章で、イエス様ご自身が「真理があなたがたを自由にする」と言われたのに対し、ユダヤ人は我々は奴隷ではないし自由であるのに、なぜあなたそんなことをいうのかと反論します。
    
     ヨハネ8:31-34 「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ・・・・『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
    
     「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」とイエス様は言われました。最初から悪意を持って他者を傷つけたり、争そうと思う人は少ないでしょう。しかし、神様を信じていないと、自分の思いが中心となるのでおのずと自分の利益を守るため、自分の欲に従ってしまうと結果的に罪を犯してしまい、そこから抜け出せないでいるのです。しかし、このイエス様の十字架の犠牲があるからこそ、私たちは救われ、罪の奴隷状態から解放され、神の子供として自由を与えられます。つまり、信じると聖霊が与えられ、私たちの内側が変えられていくので、また聖霊がストップをかけ、罪を犯しにくくなっていき、もはや、したくないことをしてしまう、もしくはすべきことをしないというジレンマに陥る状態から解放されていきます。そして自由な状態で、神様の愛に応答して、キリストに従っていこうという心に変えられていきます。
    
     このように私たちが真に自由になるために、どれ程大きな犠牲が払われているのか、また神様は何千年も前から、この救いの計画を立て、実行されてきたということを覚え、神様と神の小羊であるイエス様の前にひれ伏し、感謝して礼拝をいつも捧げたいと思います。

    
Iコリント5:7 でパウロも「キリストはわたしたちの過越しの小羊として屠られたからです」と言っているとおりです。特に聖餐式で、パンとぶどう酒を預かるたびに、イエス様の割かれたからだとその血を思い出し、感謝を捧げ、復活されて今も天で生きておられる主イエス・キリストと神様といつか天国での晩餐会に預かれることを待ち望みたいと思います。地上での生活において何事に関しても願いと祈りを捧げ、イエス様を通して天の父にとりなして頂きたいと思います。将来の天にある希望を忘れずに、日々の生活を主とともに過ごしていけたらと願います。

お祈りします