最近、ある牧師さんと話していて、はっと気が付かされたことがあります。彼女はとても多忙な方で、それにも関わらず、月に一度、遠方から私たちの教会で開催している「親子ゴスペル」の講師として来てくださっています。彼女は「家事をしている時も、礼拝説教の準備のための、黙想しているのよ。時間がないからね」とさらっとわれました。その言葉を聞いて、私は自分が家事をしている時、何を考えているかと問うてみたのです。人と比較するのは意味がないことですが、他者から学ぶこと、気づきを与えられることは大切です。どんなにやることがあっても、たとえ教会のためで、もしくは仕事のためだとしても、生活の中の根底に神様との対話をしていなければ、つまり主が共にいるという臨在を感じていなければ、心に平安を保てないのは当然だと思わされました。
ブラザー・ローレンスという17世紀の修道士がいます。彼は「敬虔な生涯―ふだんの生活の中におられる神」の著者です。私は若い頃、この本を読むことを勧められ読んだことがあり、しばらく忘れていましたが、この牧師さんの言葉を聞いて今一度思い出しました。ブラザー・ローレンスは修道院の厨房で下働きをしていましたが、仕事をしながらいつも神様の臨在を感じることができたそうです。食器を洗うという動作一つ一つの中に、神様に対して喜んで行うという思いを込めていたと、つまり神様と対話しながら働いていた様子がこの本に記されています。彼は当時の修道院で、神学を学んだ社会的に地位の高い修道士ではなかったので、修道院では雑用、労働作業を担当したようですが、もしかしたら、その当時の中世の宗教社会の上層部の方々よりも、神様と共に歩んでいたのではないかと思います。
古代イスラエル王のダビデは、若い時に羊飼いをしていた時から、神様を愛し、神様をいつも感じ、そのことを詩編として残してたのが、下記のみことばです。
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節
ダビデの人生は波乱万丈で、多くの成功、そして失敗もありましたが、生涯神様への信仰は失いませんでした。それは、いつも神様と対話していたからではないでしょうか。だからこそ、彼にとって多くの問題、たくさんの願いがあったとしても、それらを全て覆う、根本的な一つの大事なことだけを願い、求めようと、自分自身にも語りかけていたのではないかと思います。「宮」とは神様のおられる場所、つまり神様の臨在するところ、そこにいつもいたい、喜びをもって朝を迎えたいと。神様の臨在を感じるところは、物理的な場所を示すのではなく、自分の心の内側のことなのです。
パウロは、聖霊の住む宮は私たちだと言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」コリントの信徒への手紙13章16節
神の霊、つまり聖霊が信じるものの心に与えられているので、その聖霊を通して神様の臨在を感じ、対話できるとは、なんと幸いなことでしょうか。
現代社会の中で、キリストを信じる信仰を貫いて生きようとすると、力が入りますし、覚悟のようなものがいるように思いがちです。また心が忙しく、平安がないのに、表面だけ、言葉だけクリスチャンのようなふるまいをしても偽善となります。私は、もっとみ言葉を読み、手を動かしながら、歩きながらも神様に祈り、対話していけるよう、神様に求めていこうと思わされました。この、文章を討ちながらも、「神様、気づきを与えて下さりありがとうございます!」と。それが、私にとって生きる上で最も大切なことであるからです。
(引用:新共同訳聖書)
ブラザー・ローレンスという17世紀の修道士がいます。彼は「敬虔な生涯―ふだんの生活の中におられる神」の著者です。私は若い頃、この本を読むことを勧められ読んだことがあり、しばらく忘れていましたが、この牧師さんの言葉を聞いて今一度思い出しました。ブラザー・ローレンスは修道院の厨房で下働きをしていましたが、仕事をしながらいつも神様の臨在を感じることができたそうです。食器を洗うという動作一つ一つの中に、神様に対して喜んで行うという思いを込めていたと、つまり神様と対話しながら働いていた様子がこの本に記されています。彼は当時の修道院で、神学を学んだ社会的に地位の高い修道士ではなかったので、修道院では雑用、労働作業を担当したようですが、もしかしたら、その当時の中世の宗教社会の上層部の方々よりも、神様と共に歩んでいたのではないかと思います。
古代イスラエル王のダビデは、若い時に羊飼いをしていた時から、神様を愛し、神様をいつも感じ、そのことを詩編として残してたのが、下記のみことばです。
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節
ダビデの人生は波乱万丈で、多くの成功、そして失敗もありましたが、生涯神様への信仰は失いませんでした。それは、いつも神様と対話していたからではないでしょうか。だからこそ、彼にとって多くの問題、たくさんの願いがあったとしても、それらを全て覆う、根本的な一つの大事なことだけを願い、求めようと、自分自身にも語りかけていたのではないかと思います。「宮」とは神様のおられる場所、つまり神様の臨在するところ、そこにいつもいたい、喜びをもって朝を迎えたいと。神様の臨在を感じるところは、物理的な場所を示すのではなく、自分の心の内側のことなのです。
パウロは、聖霊の住む宮は私たちだと言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」コリントの信徒への手紙13章16節
神の霊、つまり聖霊が信じるものの心に与えられているので、その聖霊を通して神様の臨在を感じ、対話できるとは、なんと幸いなことでしょうか。
現代社会の中で、キリストを信じる信仰を貫いて生きようとすると、力が入りますし、覚悟のようなものがいるように思いがちです。また心が忙しく、平安がないのに、表面だけ、言葉だけクリスチャンのようなふるまいをしても偽善となります。私は、もっとみ言葉を読み、手を動かしながら、歩きながらも神様に祈り、対話していけるよう、神様に求めていこうと思わされました。この、文章を討ちながらも、「神様、気づきを与えて下さりありがとうございます!」と。それが、私にとって生きる上で最も大切なことであるからです。
(引用:新共同訳聖書)