Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

邦画「マイ・ダディ」を観て

2022年05月22日 | 日記
 ムロ ツヨシさん主演映画の「マイ・ダディ」を観ました。彼が演じる主人公は牧師で、彼の愛する娘が白血病となり、そこで初めて自分と娘との間に血縁的親子関係がないことが判明、骨髄移植のドナー候補の本当の父を探すことになるというストーリーです。すでに他界した妻と愛し合っていたと信じていた牧師の苦悩と、娘の命を助けるために追い詰められていく様子を描く親子愛のヒューマン・ドラマでした。おそらく監督はクリスチャンではないと思いますが、キリスト教のことをよく調べストーリーが作られています。

 映画の中で、教会でホームレスの人たちに炊き出しが行われている時に、ある人が「神なんか信じねえよ!」と言われながらも、牧師が笑顔で「~さん、礼拝に来てくださいね」と優しく接する場面、白血病と告知された娘が「神様は耐えられない試練は与えられないよね。。」と父に訴えるシーン、何度も礼拝堂で静かに牧師が独り静まって祈る場面がありました。その祈りの場面を通して、人間同士の愛の背後で、目に見えない神様がその祈りを聞き、困難な状況の中でもあきらめずに生きようとする親子を導いている、そういう印象を受けました。

 今日与えられた聖書の箇所が試練についてでした。試練は、誰にとっても喜ばしいものではなく、出来れば避けたい、苦しみや悲しみを伴うことです。もし利益だけを与え、災いは退散させるという都合の良い神のイメージを求めれば、試練が起こった時「神がいるならなぜ、こんな事が起こるのか?」と不信仰にもなりえます。しかしキリストを信じる信仰の目でとらえれば、試練は私たちの信仰が強められるために与えられ、その信仰が本物であることが試されるために通る道であると記されています*。また、たとえ大切な人を失ったとしても、信じる者には天国で再会できるという希望があります。死んだら終わりではなく、またこの世でのことがすべてではなく、キリストの十字架を信じる者には永遠の命が与えられていることを「知識として」とらえるのではなく、自分自身が試練に直面する時に初めて「本当にそのことを信じているか」が問われます。もちろん、感情的には悲しみと寂しさ、苦しい思いは伴いますが、神様から与えられる深い慰めや励ましを受けて、その時期を乗り越え、これから先の神様の計画を信じて前進できる力が与えられることは幸いです。神様は試練を通るその真ん中で、寄り添ってともに歩んでくださる方です。神様は私たちの弱さもご存じですから、耐えられるように力を与えて下さいます。このことを体験すると、「やはり、神様は真実な方で、乗り越えさせてくださった、感謝!」と神様への信頼関係が増し加えられます。

 この半年の間に、自身の身内の間に次から次へと病気と怪我がおこり、心配なく平穏に過ごしていた時から目を覚まされた時期でした。まさに信仰が試され、覚悟を迫られたこともありました。またこれからも何度も起こるでしょう。神様は真実なかたであり、み言葉の約束とおり、私たちは神様に励まされ、強められ、さらなる試練も乗り越えると希望が与えらます。これは、本当に主イエス・キリストにおける神様の愛と恵によるものです。日々、様々なことが起こり、心が揺さぶられ、未熟な私は正直、時には叫びたくなることもあります。その都度イエス様がともに試練を乗り越えさせてくださるという、大きな恵、励ましを思い出し、すべてのことに感謝し、賛美を捧げていきたいと思います。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 コリント信徒への手紙一 10章13節

*「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」ペトロの手紙1 1章6-7節


「神があなたに広く伝えてほしいこと」益子教会主日礼拝メッセージ

2022年05月08日 | 日記
本日の箇所(ペトロの手紙1 2章4-10節)は、ペトロの手紙第一より、私たちがキリストのゆえに神様から与えられた特権と、神様から委ねられていること、神様が私たちに広く伝えてほしいこと:神様の御業について学びたいと思います。

ペトロの手紙一は、5章12節によるとキリストの弟子ペトロが、シルワノという人に書かせた手紙で、おそらくローマ(バビロンが同時ローマを意味する暗号)で書かれたとされます。シルワノはパウロの伝道活動の助手で 、パウロがローマでと囚われの身となったあと、シルワノの助けを借りてペトロが小アジアの地域の伝道をパウロから引き継ぎ、異邦人信徒たちに対して、迫害の中における励ましの手紙を書いたと言われます。

まず、ペトロの手紙一 2章4-10節の前は、2節にある「うまれたばかりの乳飲み子のように」とあるように、キリストを信じて新しく生まれたのだから、以前の古い自分を捨て去り、みことばにより、成長するようにという文脈となります。3節に「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」だから、4節「この主のもとに来なさい」と、あります。そして霊的成長の土台は、キリストだということが、続く「石」というたとえで語られています。つまり、私たちも生きた石として用いられ、神殿、つまり神の宮を建てあげていこうという比喩です。6節はイザヤ書の引用で

      それゆえ、主なる神はこう言われる。
      「わたしは一つの石をシオンに据える。
      これは試みを経た石       堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
      信ずる者は慌てることはない。                  イザヤ書28章16節 

つまり、キリストを信じる者にとっては、キリストは選ばれた尊い石であり、新共同訳では「これを信じる者は、決して失望させられることはない」と訳されて引用されています。次は詩編とイザヤ書の引用で

       家を建てる者の退けた石が
       隅の親石となった。
       これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。        詩編118編22-23節
     
         万軍の主をのみ、聖なる方とせよ
       あなたたちが畏るべき方は主。
       御前におののくべき方は主。
       主は聖所にとっては、つまずきの石
       イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩
       エルサレムの住民にとっては 仕掛け網となり、罠となられる。   イザヤ書8章13-14節
     
イスラエルの民がイエス様をキリストとして認めず、捨ててしまったので、彼らにとってはつまづきの石、妨げの岩です。もちろん、ユダヤ人でもイエス様を信じている人は、異邦人のクリスチャン同様に、新しい契約による神の宮に預かり、生きた石として神の宮を構成することとなります。 8節の「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」という箇所は、あたかもイスラエルの民がそうなるように定められていて、救われることのないかのように取れますが、そうではありません。なぜなら神様はイスラエルに対してアブラハムを通してなされた祝福の約束を破棄されることなく、将来イスラエルの民の救いの時がくることが預言されており、この神様の計画において、一部のイスラエル人がかたくなになったのは異邦人全体が救いに達するまで 、とパウロもローマの信徒へ手紙9-11章に記しているからです。神様のご計画はわたしたちの思いを超えています。パウロがエフェソ信徒への手紙で記しているように

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」 イスラエル人も私たち日本人を含む異邦人も、つまりすべての人をキリストにあって救おうと御心のままに、天地創造の前から、選んでくださっているということは大いなる恵みです。
エフェソ信徒への手紙1章4-6節

9節で私たちは「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」であることが記されています。私たちはクリスチャンという新しい人種、国民であり、神様の所有の民であるということ、また、信じる一人ひとりに与えられている聖霊により、人間の祭司を介しなくとも、自分自身が祭司として、自らを生きた供え物として神様の前に捧げることが出来るという特権が、キリストの救いの御業のゆえに与えられているという、励ましのみ言葉です。神様はクリスチャンという新しい種族を選ばれ、遺伝的なアブラハムの子孫ではなく、キリストを信じる信仰によりアブラハムの子孫として約束された神様の祝福を受けることができます。このような特権が与えられている恵みを私たちが与えられているということを覚えて感謝していきましょう。具体的に自分自身を生きたそなえものとして捧げるとは?いろいろありますが、賛美で捧げることももできます。また神様に従うこと、例えば互いに愛しあいなさいという命令は簡単なことではなく、労苦と犠牲が伴います。それでも、出来なくとも、神様にしたがって愛そうと決めていくのも自らを捧げることになると思いま。す

  私たちは、続く10節にあるように、信仰が与えられる前は、罪のゆえに暗闇の中にいて神様の憐みを受けるにふさわしいものでもなく、また神の民でもなかったのです。ここは旧約聖書のホセア書からの考えを、ペテロが用いて記したとされます。

       わたしは彼女を地に蒔き
       ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
         ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって 「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
       彼は、「わが神よ」とこたえる。 ホセア書2章25節

イエス・キリストの十字架によって、暗闇からおどろくべき光に招かれ、神の民としていただきました。私たちは救われたからといって、すぐに聖人になるわけではありませんが、徐々に内側が聖霊の働きにより、神様の愛を示す性質へと変えられていく希望があります。私自身を見ると、その弱さ、性格、とても聖なる国民、祭司などと思えない者です。しかし、神様は大祭司であるイエス様というスクリーンを通して、私たちをそのように見てくださっているということを信じ、はばからず、神様の恵みの座に近づいて行こうとへブルの記者も記しています。
                                
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。   へブル人への手紙4章15-16節

そして私たちが神の民とされた理由は、主から委ねられたミッションをこの地上にいる間に行っていくためであります。それは、この主の力ある救いの業、しいては神ご自身の存在自体を、わたしたちが知らない人々に広く伝えていくということです。これは、牧師・教師だけに言われている課題ではなく、神様の救いの豊かな恵みを受けるクリスチャンすべてに対してです。個々人として、教会として、ともに祈り、キリストの福音を伝えていく責務があることは、復活されたイエス様も命令されています。マルコによる福音書16章15節 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」 しかし、その命令は、自分の力で行えとは言われていません。インマヌエルという名のイエス様がともにおられ、聖霊が私たちのうちに住み、ヘルパー(助け主)として助けて下さるから、プレッシャーに感じる必要はないのです。それぞれが神様から呼ばれていて、その召され方は様々であり、働きにはいろいろありますが、それをお与えになるのは主ですとパウロが記しているからです。

直接的にキリストの福音やみことばを語れなくとも、私たちの生活の中で神様の驚くべき御業を広く伝えることは可能なはずです。神様の御業は愛ですから、その神様の愛をその時に応じて、周りに表していけるからです。またパウロはキリストの体は各器官からなり、それぞれ異なった働きをすると記しています。
     
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 コリント信徒への手紙一 12章4-7、27節

このことは、ペトロが先に、霊的な神の宮を建て上げるために、個々人が「生きた石として用いられ、霊的な家に作り上げられるように」(2:5)で記しているのと同様です。教会が、一つのキリストの体として一つの目的:主の大いなる御業を広く伝えるために、キリストの愛で結び合わされ、ともに働くことができるでしょう。この働きは、強制的になされるものではなく、神様の愛に対する応答であるはずです。最初に読みました2章3節に「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」とあるように、自分が神様の恵み深さを経験していなければ、福音を広く伝えることが重荷になります。神様の恵みは一度きりではなく、日々豊かに注がれていて、それを私たちが受け取っていけば、心が満たされ喜びに変えられていきます。神様の恵みを味わっていないのに、クリスチャンだから教会員だからこうすべきだ、この奉仕をしてくださいと言われてしているならば、もはやその働きは企業のような組織でのものと同じになってしまい、そこにはキリストの愛がありません。

4節「この主のもとに来なさい」と、あります。信仰を持った後でも、心に平安がなければ、主キリストのもとにまずは行き、そこで休みを得、恵みを頂く必要があります。その恵を味わって初めて、キリストに従い、習っていこうという思いが起こり、心に平安が与えられるでしょう。これはイエス様ご自身が言われているみ言葉です。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。    マタイによる福音書11章28-30節


もし、奉仕活動が重荷に感じたり、聖書の言葉が強いられている命令と感じている人がいるならば、まず、主のもとに行き、恵みをたくさん受けることをお勧めします。キリストの恵みを味わえば味わうほど、神様に対する感謝が高まり、また自分の思いが低くされ、神様の思いにあわせていきたいと自発的に心が変えられていき、キリストの体の一部として何かしていこうと自発的に喜びをもって行えるはずです。このことを覚えつつ、神様の様々な恵みの御業を広く周りの人に伝える機会が与えられるよう、私たちを通して神様の愛を表せるよう祈り求めていきたいと願います。

 お祈りします。
     
 (引用:新共同訳聖書)

自然そのものではなく、自然を創られた方へ

2022年05月04日 | 日記
 私たちの住む益子町は自然豊かな里山に囲まれていて、ちょっと行けば散策や短時間の登山ルートにアクセスが出来ます。先日も根本山という場所を歩き、鳥のさえずりを聞きながら、新緑の美しさや沼を泳ぐオタマジャクシを見ながら、心身ともにリフレッシュされて、この自然を創られた神様に感謝しました。近所にこのような場所があるのだから、もっと定期的に里山を歩く時間を取りたいと願いつつ、日々の忙しさでたまにしか来られない現実を思い、時間はあえて作ろうと努めなければ過ぎてしまうものと実感します。

 私はどちらかというと森林派ですが、海が大好きだという友人がいます。海へ行くと、癒され、パワーがもらえるからだと言っていました。確かに、海や山にはマイナスイオン効果というのが目では見えませんがあるそうで、空気も良いし体には良いので、癒し効果はあります。しかし、人間というのはこの自然を破壊することで都市生活の利便さを追求し享受してきました。自然を破壊しておいて、限られた自然に癒しを求めるという、自分でもなんとも矛盾した生活のように思えます。

 自然の癒しを感じる時、忘れてはならないのは、この自然を創られた神様に感謝することです。自然の営み、その調和を知れば知るほど、これらを総合的に設計された神様の業は素晴らしいと感じます。さらに、この自然を創られた目的は、私たち人間がこの地上で生きられるように、そしてキリストにあって救われるようにとあらかじめ天地を創造する前から計画されていたことが下記の聖書の箇所より知ることができます。また人はその与えられた環境を適切に治める仕事を神様から任されていることも聖書には記されています1*。この人の責任は重いということを覚えつつ、そもそもの人を創られた神様の目的、御心にいつも焦点を戻したいと思います。

 神様は人を愛する存在として創られ、人間同士も互いに愛し合うようにとイエス様は教えられましたが*2、現実はどうでしょうか。それが出来ていない理由は、人間の欲、自己中心な心、また創造主である神様の存在を無視し、勝手な神々を作り上げて拝んでいるという罪からではないでしょうか。この私を含む人間を救うために、神様はイエス・キリストをこの世に送って下さり、十字架で私たちの罪のために代わりに罰を負って死なれ、それゆえに信じる者が罪を赦され、神様と和解させてくださいました。このことは自然を創って下さったこと以上に重大な神様の業であり、今も復活されて天で生きて私たちの祈りをとりなして下さるイエス・キリストに感謝し、賛美を捧げるべき理由であります。いつも自然に触れることができなくとも、心身共に疲れていたとしても、キリストにあって、今与えられている恵とその救いの業に感謝し、たたえつつ、心の内側に神様からの愛と生き続ける力を求めていきたいと祈ります。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」
エフェソ信徒への手紙1章4-6節

*1 創世記1章29節
*2 ヨハネによる福音書13章34節


ウクライナ支援のバザー

2022年05月03日 | 日記
 GWが始まり、初日は嵐のように激しい雨が降りましたが、2日目は良いお天気となりました。その日、茨城県土浦市にある教会でウクライナ支援のためのバザーを開催するということで、私たちは少量の物品を持参して参加しました。ここ数年の間コロナ禍でイベントの開催がされていなかったので、教会で行うバザーに参加するのは久しぶりでした。この売上金が少しでもウクライナの戦禍にある人々の支援に役立てばと願っています。
 
ロシアによる侵略戦争として、ウクライナの惨状が毎日のように報道され、心が痛み、平和への祈りを続けています。一方、メディアに報道されないだけで、世界では他の国々でも内戦が続き、人々が苦しんでいます。私たちの教会関係の友人はアフリカのカメルーンという国の出身で、日本に宣教師として来ている夫と共に日本に在住しています。彼女の国は植民地時代の名残による内戦が続いており、同じ国民同士が残虐な殺し合いをしており、その見せてもらった写真には、ぼかしなしの死体がたくさん写されていて、衝撃的な映像でした。国連も、関与していません。また、ウクライナでの戦争が始まる以前から続くミャンマーの軍事政権の状況は、報道されなくなりました。私たちは、世界で起こっているすべてのこと全てを把握できません。どんなにインターネットが普及していても、報道統制があり一部だけなのです。
 
 聖書に「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」*としるされています。完全なものが来た時には、部分的なものが廃れるとあります。しかし、いつまでも残るものがあり、それは信仰と希望と愛だと記されています。

私が今生きている時代も過去も、情報が開示されている部分しか知ることができず、ましてや未来を知ることはできません。一部のことしか把握できないし、日々新しい情報と入れ替わっていき、それらに信ぴょう性があるかも疑問です。しかしながら、どんなに時代が変わろうとも、この体が滅びようとも、私の魂が持ち続けられることは神様への信仰、希望、愛であり、そしていつか部分的にしかわからなかったことがすべて知られるようになるという、この神様の約束が与えられているのは幸いです。この愛は神様の愛であり、感情に左右されてしまう人間の愛ではありません。神様の愛は無償で与える愛、忍耐する愛、柔和な愛であり、私は自分の持ち前の気質で表すことは困難です。日々、部分的な情報や自分のその時の感情に支配されないように心がけ、神の言葉である聖書を読み、平和を祈りつつ、すべてのことにおいて、そこに愛はあるのかと、神様の導きを求めて過ごせたらと願います。

「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」コリント信徒への手紙1 13章12-13節

*コリント信徒への手紙1 13章8-10節