Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

命のイメージ

2020年02月27日 | 日記
 命。「これをイメージして絵を描いて下さい」と言われましたら、どのような絵が頭に浮かぶでしょうか。ハート♡、赤ちゃん、植物の芽。。。 命のイメージは個々に異なるでしょう。大きな災害や戦争を経験した小さい子に命のイメージを描かせると、真っ黒に紙を塗りつぶした絵を描くことがあると聞きました。命という概念は、それ自体目に見えないですし、言葉で表現しようとしても漠然としてますが、よく使われる言葉です。

 一方、命を守るために、私たちは出来るだけのことを、いや、出来ないことでも必死にしようとします。コロナウイルスのように、目に見えない脅威から、自分の身を守ろうと私たちは必死になります。感染したら死に至るかもしれないという、恐れがあるからです。このように、命は「生きている」ことに関連し、この肉体が死ぬと命はなくなると一般的には考えられています。では、命はどこから始まりどこで終わるものなのでしょうか。このことをよくわからないまま、生きている人の方が多いと思います。何事でもはっきり見えて、こうなると予め把握出来、それを信じられたら、多くの恐れは軽減されるかもしれません。

 イエス・キリストは「命」という言葉をよく使われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」*1ここでは、死んだら終わり、生きてなんぼという意味ではありません。なぜならイエスは別の箇所で、弟子たちに「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」*2と言われ、体しか殺せない「人」を恐れるな、むしろ体も魂も滅ぼすこともできる、神を恐れなさいと言われているからです。つまり、お金や名誉、権力、また死んだらなくなる命に執着することより、魂に関連する「命」を与える神を求めよと示しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。」*3ここでの「世」とは人間のことを指し、神は独り子イエスの命を犠牲にして、世(人間)を救い、永遠の「命」を与えるために、キリストが十字架で死に、3日後に復活するという計画を実行されました。

 一度生物学的に死んだら、どんなにお金を支払っても生き返らせることできません。しかし、神には人の命を買い戻すことができる、ということが先ほどの言葉の背後にあります。(なお、単に「買う」と「買い戻す:贖い」とは異なります*4。)イエス・キリストは、全ての人の、罪のゆえに霊的に失われていた命を買い戻すために、十字架でご自分の命を代価として捧げられました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」*5 このキリストによる贖い、救いを信じる人に、永遠の命が与えられます。

 このキリストの復活は、キリストご自身が復活されたことで終わらず、キリストを信じる者が後に霊的な体が与えられ復活することを意味すると、使徒パウロは説明しています*6。イエス・キリストを信じている限り、この命は永遠に続くという約束を信じて、日々様々な恐れや思い煩いの要素となるものに心乱されず、今日という日を、神様に感謝して過ごしたいと願います。私の命のイメージは、「神と共にある永遠」です。


*1 マタイによる福音書16章26節
*2 マタイによる福音書10章28節
*3 ヨハネによる福音書3章16節
*4 買い戻すとは、贖いともいい、本来は、奴隷の状態にあった人をお金を払って自由にすることを言う。聖書は、人は皆、罪の奴隷であったので、そのような状態から解放するため、神は代価(キリストの命)を払ってく買い戻し、自由にして下さったと記している。 第一コリント6章20節、エペソ1章7節
*5 マルコによる福音書10章:45節
*6 第一コリント人へ手紙15章

普通とは

2020年02月21日 | 日記
 以前の職場で、私の同僚に嫌な態度を取る男性に、そのことに対して私は直接その男性と話合いをした時、私は「普通、そういうことしないですよね?」と言うと、「あんたの言う、普通ってなんだよ?俺は普通じゃないのか?」と切り返されたことがあります。私たちは無意識に「”普通は”~ですよね」と言います。確かにその男性が言うように、普通とは何であろうかと考えさせられます。相手にこの言葉を言う時、その言う人間の”普通”と相手側との”普通”が必ずしも一致するとは限らず、そして、言われた方は「自分は普通ではないのか?」と激怒、もしくは気分を悪くするでしょう。

 もう一つの普通。女性であれば、誰でも母性が持てると思われています。しかし、そうでない女性もいます。子供を産んでも、その子供を愛せない人、母性が持てない、子どもを置き去りにしていまう人もいます。そのような母親を持つ子供達は心に傷が残り、大人になって自身の人間関係で影響がでてきます。幼少時に母親から虐待を受けた女性が、自分が受けたことのない愛情をどのように自分の子どもに注いでいいのかわからず、子育てに悩みます。彼女たちは、精神的に追い詰められていたり、問題を抱えて苦しんでいても、誰にも相談できずにいるかもしれません。そして、周りの人のちょっとした一言「普通は。。」で、自分がそうでないことにさらにプレッシャーを感じ、落ち込むことでしょう。

 あるアメリカ人の牧師が、最初、自分が日曜の礼拝でメッセージを語っている人々がごく普通の家族を持つ人々だと思っていたのですが、実はそうではなかったことに気付いたと言っていました。この牧師にとっての”普通”の家族とは、例えば両親が揃っていて、彼らの子供がいる、まあまあの車に乗り、一戸建てに住むような世帯。しかし、実際話しを聞いてみると、例えば親は離婚し、片親と住む子どもたちや、親が再婚同士で、それぞれが前の結婚での連れ子と共に暮らす家族、離婚して独りでタワーマンションに住み、 高級車に乗っている人等だったそうです。彼らの心は、傷ついています。問題をたくさん抱えて、多くのことに失望し、心の中は空虚な思いで、満たされない。だから、神様を求めて、教会に来るのでしょう。

 神様は、「普通」という枠組みで人々をわけ隔てしない方です。聖書のイザヤ書という書簡に、女性が自分の産んだ子を忘れることはあるかもしれないが、私(神様)は決してあなたを忘れることはないと、記されています。神様は、母親であっても子供を愛せない女性たちもいるということをすでにご存知です。そして、普通という基準に達せないことを責めるのではなく、「私はあなたを忘れないし、見捨てないよ」と言われています。これは、もともとはイスラエルの民に神様が語られた言葉ですが、現代に生きる私たちにも適応される神様の約束です。

 多くの人は様々なことを普通に、当たり前にしたいと思っても、出来ない弱さを持っています。他人からは、そのことを責められるかもしれません。差別や仲間外れにされ、見下されるかもしれません。しかし、神様は決してすべての人を見放さず、ご自身の愛で包み、傷ついた心を癒そうとされ、回復される方です。だから、教会には普通ではない人々がやってきます。私もしかり。しかし、教会にきて、聖書の言葉を聞くことから始め、信仰が与えられると、回復が与えられます。回復された人同士で、不完全であっても互いに愛し合おうとします。そして、教会でも人間関係でうまくいかないことがあっても、神様が助けて下さり、心が変えられていきます。赦す心も与えられます。私には決して裏切ることのない、確かな神様の愛に包まれているという信仰が与えられるので、失望するようなことがあっても、落ち込んだままではいません。また立ち上がる力が与えられます。なんと、感謝なことでしょう。だからこそ、自分が神様の愛を受けるだけでなく、他者と接する時に話す言葉に、よく注意を払えるよう、神様に助けていただく必要があります。他者のことをおもいやるイエス様の愛を「注いで下さい」と祈ろうと思います。

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」
イザヤ書49章15節

イスラエルの為に祈る

2020年02月13日 | 日記
 ホロコーストを知らない人はいないと思いますが、この恐ろしいナチスによるユダヤ人大量虐殺の歴史的背景を深く知らない方もおられると思います。先日、私はある会に参加し*1、ユダヤ人とキリスト教国の歴史をまざまざと映像で見る機会があり、自分の無知さと、この悲しい現実にショックを受けました。ユダヤ人はA.D.一世紀に現、パレスチナ地域にあった国を滅ぼされ、全世界に離散して街を作り住んでいたのですが、キリスト教がローマ帝国に国教として認められて以来、キリスト教は彼らを徹底的に迫害し続け、根拠のない反ユダヤ主義思想を人々に植え付けてきたという歴史が1700年間に及ぶという背景があります。そして、ホロコーストが起こったときも、全世界は見て見ぬふりをしました。彼らは全ての人々から見捨てられたと言っていました。

 イスラエル国は、シオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)を経て1948年5月14日に建国 、以後それを認めない周辺のアラブ諸国との戦争、いわゆるパレスチナ問題が続いています。西欧諸国にも、いまだ反ユダヤ主義思想が残っているという恐ろしい現実があります。このような辛い歴史を歩んできたユダヤ人が、幾度もの民族的絶滅と迫害の患難にあいつつも、希望を捨てずに生き続けてこられたのは、彼らの神(ユダヤ教)を信じる信仰と民族のアイデンティティ保持によります。従って他国の人と交流をせず、自分たちだけで結束し、勤勉に働き財をなし、様々な社会の分野で活躍しているのも理解できます。

 このような歴史から、他民族がユダヤ人に寄り添うというのは難しいことです。しかし、いくつかの民間団体はなんとか和解の架け橋になろう活動を続け、特にイスラエルの貧しい人々(貧困率が高い)の支援をしているNPOもあります*2。また、ユダヤ人は日本人に対してはとても好意的に思ってくれています。なぜなら、ホロコーストの際、リトアニアの日本領事館領事に赴任していた杉原千畝氏が、政府の命令を守らず多くのユダヤ人に日本経由で亡命するビザを発給し、手助けしたからです 。当時7歳だったユダヤ人の女性は、2016年のイスラエル建国記念式典(MOL)*3に参加した日本人のクリスチャン・ロックグループに、「私は杉原千畝によって生き残れたのよ!」と熱く語りかけたそうです。

 日本には西洋諸国のようにユダヤ人街もないので、彼らと接する機会も少ないしあまり情報も入らないでしょう。ユダヤ人は、イエスがキリストだと信じず、いまだに神が送ると約束しているメシヤ(救い主)を待っています。キリスト教による迫害の歴史のゆえに、彼らにはクリスチャンと大きな溝がありますが、それでもメシアニック・ジュ―と称する(クリスチャンとは決して称しません)、イエスをキリストと信じるユダヤ人信徒も少数派ですがいます。そして、旧約聖書の預言によると、ユダヤ人はメシアの再臨(イエス・キリストが再びこの世に来ること)の前に「恵みと哀願の霊」を注がれて、イエスがメシアであると信じる時が来ると記されています。*4 

 ユダヤ人であったキリストの使徒パウロは、神様の救いに関してユダヤ人と異邦人との関係について、選民であるユダヤ人がつまずいたおかげで、キリストの救いが今まで全く縁のない他民族(異邦人)にもたらせれたという、不思議な神様の計画があるのだと、ローマ人への手紙にて記しています。もともと、神様はアブラハムを選んでイスラエル民族を起こし、以後イスラエルの民をずっと愛されてきました。かれらが他の神を信じた時期もあったり、メシヤを受け入れなくても、彼らを決して見捨てず、いつかメシヤを信じる時がくるという計画を持っておられます。ですから、下記のみことばにあるように、民族に関わらず、誰であっても、ただキリストを信じれば救われるという恵にあずかることができたのは、ユダヤ人がイエスをキリストと認めなかったおかげなのです。

 よって私たち異邦人は、与えられた信仰を誇ることも出来ないし、ユダヤ人を見下すこともできない、ましてやユダヤ人を迫害するというのは、クリスチャンであれば本来あり得ないわけです。しかし、私も他人ごとではありません。無知のゆえにユダヤ人に対する偏見を受け入れ、彼らの祝福のため、救いの為に祈らなかった罪、聖書に記される神様の大きな計画を考慮せず、世界のメディアにより放映されるイスラエルに批判的なニュースをそのまま受け止めていた罪を、今回悔い改めました。ユダヤ人がイエス様を信じた時の喜びは、私たちの想像をはるかに越えますが、そのために祈ります。そして99%の日本人もキリストの福音を知りません。私は、ユダヤ人のため、そして日本人の救いのために忘れずに祈ろうと、今回強く思うきっかけが与えられたことは、本当に感謝でした。

「彼ら(イスラエル)がつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 」ローマ人への手紙11章11-12節 ()は筆者追記

*1 2020年2月11日東京オープンハイナイト @淀橋教会 イスラエル(ユダヤ人)のため、また4月に行われるイスラエルの建国式典(Int”l Mrach of the living, MOL)に参加して、ヘブル語で賛美を歌う日本人のゴスペルクワイアーの方々のために祈る祈祷会。 
参照リンク https://www.christiantoday.co.jp/articles/27704/20200212/blessing-zion-2020.htm

*2 Biridges for Peace Japan (B.F.P. Japan) クリスチャンがユダヤ人の方々に愛と尊敬を実践的な行動を通して伝え続ける団体。イスラエルに帰還するユダヤ人新移民や子供たちを継続して生活品、食料品を支援するプログラム、家屋の修繕、ホロコースト生存者支援など16の支援活動をしているNPO。

*3 MOL とはInt”l Mrach of the livingの略で、世界のユダヤ人の若者が参加するツアーで、ポーランドのアウシュビッツの死の行進がなされたところを「命の行進」として歩き、続いてイスラエルへ飛び、エルサレムの嘆きの壁まで歩き、イスラエル建国式典に参加するという催し。2016年に日本のクリスチャン・ロックバンド、ナイトdeライトがこの式典に異邦人として初めて参加した。

*4 ゼカリヤ書12章1-14節 イスラエルの民がどのようにしてメシアを受容し、回復されるかが預言されている。 (引用:口語訳聖書)

タイタニック号:もう一人のヒーロー

2020年02月10日 | 日記
 映画「タイタニック」で日本でも広く知られるようになった、1912年に北大西洋で氷山に追突し沈没したタイタニック号の悲劇。多くの人々が命を失いましたが、生き残れた人々からその時の生死の境目の実話が語り継がれていると思います。ある人達は我さきにと救命ボートに乗ったでしょうし、ある人々は他者を助ける為に、限られた数しかないライフジャケットを譲って救命ボートに乗せたり、一人分くらいしか支えられない海に浮かぶ舟のがれきに他者をすがりつかせて、自身は氷の海の中沈んで行った人がいたことでしょう。とっさの非常時に、他者が生きれるように自分の命を犠牲にすることが、果たして自分は出来るのかと思うと、出来ないと正直に思います。逆に、自分は助けられてしまう側になってしまう、弱い、自己中心的な者であることを認めます。

 先日、そのタイタニック号にまつわる、ある方の話を知って心を打たれました。ジョン・ハーパー氏(John Harper、(1872 – 1912)は、スコットランド人の牧師で、このタイタニック号の沈没で亡くなった人の一人です。彼は自分を犠牲にして救助活動をしただけでなく、もっと重要なことを同時にしていたのです。すでに妻を亡くしていましたが、船が沈没し始めると、6歳の娘と自分の妹をライフボートに乗せた後、他者を助ける行為を続けながら、「あなたは救われていますか? そうでなければ、今、キリストを信じなさい。そうすれば救われます」と、聖書のことば(使徒の働き16:31)を短く伝えながら氷の海に飛び込んで他者を救助し、そして最後に、若い男性にこの言葉を伝えながら、がれきを彼によりかからせて、自らは氷の海の中に沈んで行ったそうです。この若い男性は助かった後に、自分が最後にハーパー牧師によってキリストを宣べ伝えられた人だったと知り、キリストを信じたそうです。ハーパー牧師は、肉体の命の救助だけでなく、魂の救いを最後まで人々に伝えた勇敢な方でした。

 聖書を読んでいると、必ずしも彼のように特別に活躍した人々のストーリばかりを載せていないことが、励ましです。むしろ、かれらが大きなことに用いられる前は、普通の人、普通に社会で働いている人も多いのです。ハーパー牧師も専任牧師になる前は、工場で働きながら生計を支えつつ、宣教活動をしていたそうです。私がアメリカの牧師たちから良く聞いた言葉「神はあなたの能力を求めているのではなく、あなたが用いられる準備があるかを求めている」(God is not looking for ability but availability. )を思い出します。特別な能力も技能もなくとも、雄弁でなくとも、ただ自分自身を神様の福音の働きのために「用いて下さい」と差し出せば、その能力も機会も神様が与えて、豊かに用いられると。実際、そう話している大きな教会の牧師たちは、自分たちも普通の人だったが、自分が神様に召されたと信じ、一歩踏み出すと、自身を通して神様の働きが広がっていったという経験から語りますので、リアリティーがあります。

 誰もがハーパー牧師やマザー・テレサのようなヒーローにはなれません。一方で、神様が計画されている働きに一人一人が呼ばれて(召されて)いると私は信じます。ですから、私たちのなすべきことは、自分が仕えたいという心を神様に差し出すこと、もし何か特定の人々のために手伝いたいという思いがあれ、それも具体的な導きを祈りつつ、とりあえず小さいことから信仰で一歩踏み出し、始めてみることではないでしょうか。その自発的な人間側の思い、志をみて、神様は一歩一歩導き、様々な神様のための働きのドアを開いて下さり、必要な能力、知識や機会をも与えて下さる方です。そこには、一般社会でなされる他者との比較をしなくてよいので、うらやましいと思ったり、ねたみや、自己を卑下もしくは、高ぶりの思いは不要です。(それでも、そのような思いを持つ誘惑にかられますが)神様が一人一人にカスタマイズされた計画を持って下さり、何もかも備えて下さるので、私がすることは感謝と賛美を持って、喜んで召されたことをイエス様に従って、パウロが下記に勧めを記しているように、お互い別の働きをしていると尊重し合い、キリストにあって一致して行ければと切に願い求めます。

「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」  
エペソ人への手紙4章1-3節(引用:口語訳聖書)

悲しみに寄り添い、慰めを祈る

2020年02月06日 | 日記
 2019年12月4日、アフガニスタンで中村哲医師が銃撃を受けて亡くなられた、というショッキングなニュースが流れたことはまだ記憶に新しいと思います。アフガニスタンでも、日本でも、多くの人々が「何故?」と悲しみの声を挙げ、彼の死を悼まれたでしょう。中村医師はクリスチャンで、1983年に日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)を通して最初はパキスタンのペシャワール・ミッション病院に派遣され、その後パキスタン側のアフガン難民の診療を開始し、以後、アフガニスタンでも医療だけにとどまらず、水源確保事業等、現地の人々の生活改善の為に長年活躍されてきたそうです。ペシャワール会は彼とその仲間たちの活動を日本で支えてきた団体で、私たちの教会に送られてきていたその会報を通して、彼の事業を改めて知り、本当に心が痛みました。

 もう一つの忘れらない事件は、2014年11月上旬、イスラム過激派組織イスラム国にシリアで拘束され、2015年1月30日に殺害された後藤健二氏のことです。私は個人的に彼を知りませんが、その動画がインターネットで流されたというニュースは、同胞としてあまりに衝撃的で、怒りと悲しみで涙が止まりませんでした。後藤氏はアフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わるフリージャーナリストで、戦争と貧困から孤児を救いたいという思いで報道を続け、彼もいつしかキリストを信じるようになり、取材の際には小さな聖書を持ち歩いていたそうでうす。 先日、ある方が後藤氏のことでこんな証しをされました。「自分は晩年になってクリスチャンとなり洗礼を受けたが、暫く迷いがあった。ある時、ジャーナリストの後藤さんのニュースを見て、神様、なんとか彼を助けて下さいと思ったが、彼を助けるために自分が身代わりになってもいいとまでは、どうしても思えなかった。私には出来ない。その時、ふっと思った。ああ、イエス・キリストは私の身代わりに自分の命を捧げて十字架に架かってくれた。そこまでして自分を救おうとしてくれたのだと。後藤氏のことより、はっきりキリストを信じる確信を得た。」

 ある人は、神がいるのなら、どうしてこのような犠牲があるのか、助けが与えられないのか?という疑問を投げかけます。聖書を読んでいても、キリスト教を信じるがゆえに拘束され、信徒たちはその人が助けられるよう熱心に神様に祈りましたが、ある人は殉教し、ある人は神様の奇跡的方法で牢獄から助けられます。何故ある人は助けられ、ある人は殺されてしまうのか、このことは神様のみが知ることです。もちろん、その遺族の悲しみは計り知れません。そして、他人がその遺族の方に対して「天国でいつか会えるから。この死には意味があるはず」と言ったとしても、慰めにはならないと思います。確かにクリスチャンには希望があります。この世の生だけではなく、この体が滅びても、霊魂は神様のもと、天国へと導かれ、そして天国で永遠に生きる新しい、今迄とは異なるからだが与えられると聖書に約束が記されているからです。しかし、遺族や故人を愛する人々が、大切な人の死をそのように受けとめられるようなれるとしても、それには時間がかかるでしょう。

 冒頭の彼らの様に生きている間多くの働きをなし、人々を助けてきた方々が犠牲になることは受け入れ難いことかもしれません。一方で、何か業績を残したわけでもなく、普通の人の死であっても、幼子のように生きた時間が短くとも、同様なのです。しかし、神様はその方々の死を通しても、残された人々に様々な影響を与え続け、意味あるものとして下さる方です。また、神様の慰めを受けて悲しみを乗り越えられた人は、その経験を通して、たとえ悲しみ苦しみの状況が同じでなくとも、今悲しみにある人に寄り添って励ますことが出来るという、プラスの連鎖が生まれます。多くの試練を経験し、キリストの福音を世界に宣べ伝えた使徒パウロも「わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるように(神が)して下さる」:()は筆者追記と記しているからです。私たちは何か言葉を言うより、悲しみに寄り添い、その人の為に神様からの慰めと励ましが誰かを通して伝わるように、そしてキリストにある天国での希望を信じて受け取れるように祈りたいと思います。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」第2コリント人への手紙1章3-4節 (引用:口語訳聖書)