Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

ウクライナの平和のために

2022年02月27日 | 日記
 誰も戦争を望んでいません。しかし一部の政治家たちの間でことが始められてしまい、多くの人々が犠牲になる。これほど理不尽なことはありません。多くの人が反戦を訴え、話し合いを呼び掛けていますが、一度始まってしまうと止めることが困難となってしまいます。また当事者以外の国は、どうかかわるべきか問われます。戦争の難を逃れて隣国にいる人々のために、たとえば物質的支援を送ること、これが日本国のとれる立場ではないかと思います。国連もNATOも両国に休戦を呼び掛けることをしてほしい。しかし現実は、火に油を注ぐこと:戦っている国に武器を供与することが始まってしまったのは非常に心が痛みます。ウクライナの人々は世界が彼らのために何もしてくれないと思い、失望しているかもしれません。ナチスがポーランドへの侵攻を始めたとき、またユダヤ人虐殺がなされていた時、世界は何もできなかったこと、結局、世界大戦という戦争に発展してしまったという歴史を鑑み、同じことを繰り返してはならないと叫びたいのです。

 今祈ることは、一日も早く終戦となること。そして日本が破壊されてしまった街の復興を経済的に支援していければと願います。日本に在住のロシア人も、ウクライナ人も祖国の家族を思い、心が張り裂けそうな思いで過ごしているのを、ニュースのインタビューからも知り、ウクライナの平和のために日々祈り続けようと思います。そしてその祈りは必ず神様が聞いてくださることを信じて。

 キリストは私たちの間に平和が造られるために、十字架にかかって死なれました。それは、キリストを救い主として信じる個人が広がり、コミュニティとなり、そしてもっと大きな団体となって、単なるヒューマニズムでの戦争反対ではなく、キリストを信じる信仰に基づき、互いに赦しあおう、争いはやめようと決意と祈りが、国をも動かす原動力となるように、神様の御業がなされるように祈りたいと思います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節


一人より二人、二人より三人

2022年02月06日 | 日記
私の夫が牧師をしている教会では木曜日の夜に聖書の学びとお祈りの会を毎週開いています。最初は二人でしたが、徐々に一人、二人、三人と加えられ、多いときには六人集まることもあります。聖書の学んでみたいという方で、祈り方がわからない、人前で祈るのを躊躇される方は、祈ってもらいたいことを分かち合い、他の人が祈るのを聞いています。この会に集まることで、お互いの今困っていること、悩んでいること、また感謝したいことも含めて話せる範囲で分かち合い、お互いのために祈りあうので、自然と親しい間柄、家族のようになれるのでとても幸いです。

 独りの祈りも大切ですが、このように複数で祈るともっと力があります。最初の教会ができた頃、使徒ペテロが迫害のゆえに、ヘロデ王により投獄されました。すでにヤコブが捕らえられ殺害された直後でしたので、信徒たちは一つのところに集まって熱心にペテロのために祈りました(使徒言行録12:5)。すると、その祈りは聞かれ、天使によって奇跡的にペテロは牢から脱出でき、また公然とイエス様の福音を皆に話し続けることができたのです。イエス様は下記のみ言葉にあるように、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 」と言われました。そしてイエス様も見えないけれども、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあり、心を一つにして祈っているその祈りの中にいてくださっているという約束は、複数で祈る強みに確証を与えてくれます。

 複数で祈ったとしても、祈りの聞かれるタイミング、方法は私たちの思った通りではないことがあります。また、上記の迫害の時代に、皆が殉教しないように互いに熱心に祈っていたことでしょう。しかし、現実は信仰のゆえに殺されたクリスチャンは大勢いました。それは祈りが聞かれなかったのではなく、その時は悲しいけれども、神様はその殉教された人々を通して次の世代へつながる何か計画があったのだと信仰で受け止めたいと思います。その悲しみはいつか天国で再会できるという喜びに変えられるという希望も与えられています。一方、もし自分に都合の良い祈りがすべて、すぐにきかれてしまったとしたら(例えば今すぐ100万円宝くじ当たりたい)、世の中はどうなるでしょうか。自分には把握できない多くの他者の都合や願いが、私の思いと都合と相反する可能性があります。その相反する人の祈りも、イエス様のみ名で同時に神様に祈られているのです。結局、すべての人の状況を把握できるのは、神様だけであります。祈ったことは必ず聞かれていて、神様のタイミングと方法でその祈りが答えられるのは感謝です。その神様に委ね、どうなるか任せるのが一番だと思います。

 私は個人的にこの数か月、様々なハプニングが起き、どうなるのだろうかと思うことが同時多発、仕事の忙しさも倍増し、今この時期をどうやって乗り越えられるのか思い煩いが多くあります。しかし、その都度心は不安になったとしても、祈ったことは神様に必ず聞かれているという信仰が与えられているので、不安で寝られなくなるということはありません。自分の思う通りにならなくとも、神様に委ね、「たとえそうでなくとも、神様の導かれる道へ進んで行こう」と聖書の言葉に日々励まされて、歩んで参りたいと思います。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 マタイによる福音書18:19〜20

キリストにある自由

2022年02月05日 | 日記
自由という言葉をどうとらえますか。逆に自由の反対語は何でしょうか。束縛、不自由、奴隷。生活の中でどんな時に、自由がないと感じるでしょうか。一般的に自由とは、人から強制されず、自分の意思で選択肢がある中から何かを選べる状態といえますが、社会という共同体の中で生きている限り、何かしらの制約があります。また、自由や権利の主張は、責任を果たせるかどうかも関わります。

一方、自分で自分を不自由にしてしまうケースもあります。例えばある人に対して敵意や憎悪、イライラする思いを持ち続けると、その苦い思いが心を支配し、それに囚われてしまいます。また「あの人は私に対してこう思っているに違いない」と被害妄想にもなりかねません。しかし、相手と話してみると、そう思っていないことが、そんなつもりはないということが分かるということがありがちです。しかし、対面で話合わず、ネット上でのコミュニケーションだけで放置しておくと、疑心暗鬼となり関係が悪化してしまいます。また、病気・障がいのために自由が利かない生活もあります。しかし、ある状況を自由ととらえるか、不自由だと思うかはその人次第という面があるでしょう

キリストの十字架による救いは、そんな私たちの人生を変えます。私たちの状況にかかわらず得られる、心の自由を得るために奴隷状態から解放して下さったのです。しかしクリスチャンになった後でも、不自由だ、何かに束縛されていると思うことはあるかもしれません。その不自由さを、前述のように自分で作っているというケースもありますし、もしくはある人の影響が強すぎて、束縛されているケースもあるかもしれません。もしそうであれば、神様に祈り、心を自由にしてくださいと祈る必要があるでしょう。

また私たちを不自由にする原因の一つは、自己中心的思いとです。使徒パウロは下記の箇所でも、「愛によって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは基本的に何をしてもよいですし、当時のユダヤ人が律法という生活の隅々にわたる細かな守らなければならない規定に縛られることもないのですが、パウロは自由であっても、益にならないことをすべきではないとも言っています。* つまり、自由なのだから何をしてもいいのではなく、平和をお互い保つために、互いに配慮しあう必要があるからです。

イエス様の教えで「神を愛すること」、「隣人を愛すること」が律法のなかで一番大切だと教えました。しかし、各々に与えられている自由を乱用すると、神様をも隣人をも愛することができません。私を含めた人間は肉の思い、自分が損をしたくない、気分を害されたくない、自分が好きなことをしたいという思いをもってしまうものです。しかし、争いのあるところにキリストの平和はありえません。多くの争いの原因は、「自分が正しい」と互いに言い合うことから始まります。争いは罪を犯させる機会となってしまいます。私たちはみな考え方も異なるし、立場も違い、利益が相反するものです。しかし、キリストが私たちに忍耐してくださったように、私たちも互いに忍耐しあい、仕えあうことを目指したいと願います。これは、本当にハードルが高いことです。日々、自分が自己中心であることを悔い改め、仕切り直し、寛容な心を神様から与え、キリストがその尊い命をかけて与えた下さった自由を、他者との関係で愛する機会に用いていけるよう、聖霊に導いていただきたいと願います。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 」 ガラテヤ信徒への手紙5章13-15節


*「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」 第1コリント信徒への手紙10:23-24
 (引用:新共同訳聖書)