教会の入り口の横に花を植えました。水をやっていると、花壇のすぐ横にある下水のマンホールからの臭いに気が付きました。よく見てみると、マンホールの蓋はしまっていても、側面がかけていて、そこから土砂が常時入り込んでいるのです。先月も排水が詰まって業者にきてもらったのですが、これでは常時詰まることになります。修理費用はいったいどれくらいかかってしまうのかと懸念しつつその業者に連絡すると、まずは町役場に聞いてくださいと言われました。下水のマンホールは町の所有なので町が修理するということで、すぐに直してくれました。何に関しも所有者に管理責任と修復責任がありますが、それがどこからどこまでが実際の使用者に負担義務があるのかわからない場合があります。今回は費用が掛からず安堵しました。
人がもし会社に属していれば、何か業務上で問題が生じたとき、個人の責任も問われるケースもありますが、基本は管理不行き届きであると会社の責任が問われます。フリーランスで仕事をしていると、自分の望むままに仕事ができ自由ですが、収入の面も、そのほかすべて自分で責任を負わねばらないという両面あります。何かに所属しているという状態は、助けがあるという安心感があるものです。
下記はキリストの使徒パウロが記したみ言葉ですが、クリスチャンはもはや自分のために死ぬことも生きることもないという不思議な表現がされています。これは、キリストを信じた時から、新しい生き方、新しい命に移される、つまり主権が罪と死の支配からキリストへ移動するからと言えます。キリストを信じる前は、自分がこの命の所有者、生きるも死ぬも自分次第ということで、一生懸命なすべきことを自分の努力と力でしているものです。しかし実態は、常に罪と死の支配下にあります。人は死を克服できません。完璧に善にいきられる人間もいません。そして物事がうまくいかない時は行き詰ってしまいます。そして誰かからの助けが得られない場合、結局自分で責任をとるしかないのかと絶望的になるもしくは、考えないことにして現実逃避的なことで紛らわして生活するという二通りに分かれるかもしれません。いずれにしても、不安定であり心が真に休まることはないでしょう。
しかし、自分は主のもの(神様のもの)であるということを信仰で受け取れると、自分自身の存在は神様の主権のもとにあり、保護され、またすべてを委ねられるという状態になれるのは幸いです。自分が神様に属していれば、人には期待できない状況でも、神様には望みをおくことができるという強さが与えられます。たとえ、自分が思うような助けが与えられなくとも、キリストを信じて委ねる者には万事が益になる*1方向に導いてくれるという安心感が与えられます。そして、そこには自由があり、縛りや強制がないのが世の中で何かに属している状態との違いです。私の魂と意思は存在します。しかし、私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとし、強制ではないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。し、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、自分はどこからきてどこへいくのかを知り、この人生は天におられる父なる神様のもとへいく途上であり、今もわたしたちは主なる神様のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、「祈って任せよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。この信仰を基盤にし、日々聖霊の導きにしたがって、歩んでいきたいと願います。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」 コリント信徒への手紙1 14:7-9
*1 「神を愛する者たち、つまり、ご計画従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」 ローマ信徒への手紙8:28
*2 ヨハネによる福音書4:18
人がもし会社に属していれば、何か業務上で問題が生じたとき、個人の責任も問われるケースもありますが、基本は管理不行き届きであると会社の責任が問われます。フリーランスで仕事をしていると、自分の望むままに仕事ができ自由ですが、収入の面も、そのほかすべて自分で責任を負わねばらないという両面あります。何かに所属しているという状態は、助けがあるという安心感があるものです。
下記はキリストの使徒パウロが記したみ言葉ですが、クリスチャンはもはや自分のために死ぬことも生きることもないという不思議な表現がされています。これは、キリストを信じた時から、新しい生き方、新しい命に移される、つまり主権が罪と死の支配からキリストへ移動するからと言えます。キリストを信じる前は、自分がこの命の所有者、生きるも死ぬも自分次第ということで、一生懸命なすべきことを自分の努力と力でしているものです。しかし実態は、常に罪と死の支配下にあります。人は死を克服できません。完璧に善にいきられる人間もいません。そして物事がうまくいかない時は行き詰ってしまいます。そして誰かからの助けが得られない場合、結局自分で責任をとるしかないのかと絶望的になるもしくは、考えないことにして現実逃避的なことで紛らわして生活するという二通りに分かれるかもしれません。いずれにしても、不安定であり心が真に休まることはないでしょう。
しかし、自分は主のもの(神様のもの)であるということを信仰で受け取れると、自分自身の存在は神様の主権のもとにあり、保護され、またすべてを委ねられるという状態になれるのは幸いです。自分が神様に属していれば、人には期待できない状況でも、神様には望みをおくことができるという強さが与えられます。たとえ、自分が思うような助けが与えられなくとも、キリストを信じて委ねる者には万事が益になる*1方向に導いてくれるという安心感が与えられます。そして、そこには自由があり、縛りや強制がないのが世の中で何かに属している状態との違いです。私の魂と意思は存在します。しかし、私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとし、強制ではないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。し、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、自分はどこからきてどこへいくのかを知り、この人生は天におられる父なる神様のもとへいく途上であり、今もわたしたちは主なる神様のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、「祈って任せよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。この信仰を基盤にし、日々聖霊の導きにしたがって、歩んでいきたいと願います。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」 コリント信徒への手紙1 14:7-9
*1 「神を愛する者たち、つまり、ご計画従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」 ローマ信徒への手紙8:28
*2 ヨハネによる福音書4:18