Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

壁の建設

2019年02月18日 | 日記
 国境の壁の建設。米国とメキシコの国境に壁を造ることに関して、米国では大統領と議会、また人々の間で論争が起きています。私たち日本人は限られた情報・ニュース等でしかその状況を知ることができませんが、先日、米国在住のアメリカ人の方のこの件を尋ねてみました。すると、その方はクリスチャンですが壁建設が必要であるとして大統領を支持していると答えました。理由は国民をテロや麻薬密売人から守る為、壁を作らなければ国民が危険にさらされるからだとのこと。なぜ、アメリカで多くの人がこの大統領の政策を支持しているのかと不思議に思っていたのですが、一つは「恐れ」に対する防衛反応なのではないかと思わされました。

 ある民族が、周辺諸国へ移動、移民すること(それが合法であれ、違法であれ)は歴史的にも起こってきた現象です。どの民族でも、元来自分の生まれた国の文化、食べ物、言語のもとで住み続けることを好むでしょう。しかしそれでも、古代から人々は様々な理由で他の場所へ移動してきています。ヨーロッパでの民族の大移動、アフリカから強制的に奴隷として移動させられた民族、また昨今では政治的不安定のため難民として他国へ逃げざるをえない人々もいます。メキシコからアメリカに人々が移動する根本的理由の一つは、メキシコの貧富の差です。貧しいメキシコの人々が、なんとか生きるために豊かなアメリカに移住したいと願うのです。テロや麻薬の密売を作りだす構造は、人々が通常の経済生活ができず、その不満因子が暴力や犯罪へと集約されてしまうこと、そして他者を犠牲にしてまで富を得たいという「欲」でしょう。私は壁を作るコストをかけるより、より効果的な政策は、メキシコ政府への貧困対策、雇用政策を経済的に支援することではないかと思います。しかしこれも、メキシコ政府自体がうまく機能していない為、簡単に事は進まない可能性が高く、非常に難しい問題です。

 壁が造られるところには、争い、憎しみ、犯罪、偏見があります。なぜなら、これらの反応として恐れ、防衛本能が壁を造るからです。しかし、イエス・キリストは隔ての壁を壊し、一つにする方だと下記の聖書に書かれています。なぜなら、キリストの教えは壁とは逆の、和解、赦し、善行、一致があるからです。人はどうしても自分が一番大切ですし、自分中心であり、その結果、自分を脅かす他者に対しては、物理的壁だけでなく心の壁を造ってしまう臆病なところがあるのではないでしょうか。しかし、全き愛は恐れを締め出すとも聖書に架かれています。* キリストの愛のあるところには、恐れとそれに伴うマイナスの感情、行動が少なくなっていきます。

 私も臆病者で、恐れや不安、心配事が出てきます。しかし、それらが出てきた時、自分で対処するか、神様に助けを求め委ねるかのどちらかを選択することが出来ます。私は後者を選び、神様を信じて委ね、必ず守られるという安心感が与えられてきていることに感謝しています。まず、神様との間の壁を取り除き和解する、それは神様を信じることです。すると、人同士との和解や赦しが壁を造ることより大切だということに気づかされます。そのために、キリストの十字架が必要だったのだと。人間同士の関係の修復は簡単に出来ることではないですし、時間がかかります。しかし壁を造ろうとせず、敵意を捨て、信仰を持って神様に和解を祈り、助けを求めるていきたいと思わされました。

「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼました。 」 エペソ人への手紙2章14-16節

*「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」 第一ヨハネの手紙4章18節

説明ではなく約束によって

2019年02月15日 | 日記
 昨日はある方のご主人の前夜式に参列しましたが、その方は牧師であり、自ら司式をなさっていました。故人の彼女の夫は62歳と若く、現役で働いている時に突然癌が発症し、4ヶ月で天国に行ってしまわれたそうです。牧師という職業は、お葬式の司式を執り行うことが仕事の一つで、私の夫も年に何度も司式をすることもあり、私もそれを手伝ってきましたが、牧師として、自分の配偶者のお葬式の司式をすることは何と辛いことでしょうか。それでも彼女は笑顔で、涙を見せることなく、福祉施設で利用者のために親身に働き続けた夫を尊敬していると、そして夫とは天国でいつか会えるという希望を話しておられました。私は、その彼女の司式する姿に心を打たれ、涙が頬をつたいました。私がこの式で出来る事は精一杯賛美歌を歌い、故人を天にお見送りすることでした。参列した多くの方が、彼女のメッセージに心を打たれたのではないでしょうか。多くの職場の方々が参列し、そこからすすり泣く声が聞こえました。

 彼女は、夫の病状について医者から余命3-4ヶ月と言われても、諦めずに壮絶な癌治療を続ける夫に付き添い、奇跡的に癒されるよう神様に皆で祈り続けたそうです。亡くなる前の晩、夫の最後の言葉が「大丈夫だよ、死なないから。。」だったそうです。危篤状態にありながら、明日の彼女の仕事(牧師として礼拝をおこなう)があるのをわかっていてか、今日はもう安心して帰ってと言うかの如く、彼女を見送ったそうです。それが夫の最後の優しい気遣いだったと。私は、彼女のご主人にお会いしたことはありませんが、きっと家族に対しても、仕事上でも優しい方だったのだろうと思いました。

 なぜご主人は「大丈夫だよ、死なないから」と言われたのでしょうか。クリスチャンの信仰では、人はこの肉体で一度は死にますが、それから天国に引っ越して生きると信じます。彼は「僕は死んでも、天国で生きているから、大丈夫だよ」という意味で、彼の信仰に基づいて言われたのだと思います。私たちは、天国に行ったことがないし、行って帰ってきた人に会った事がないですし、科学的にも人が天国で生きていることを証明することはできません。つまり、このことについて納得のいく説明を得ることはできません。しかし、私は説明ではなく、ただ、そのことを保証する神様の約束を信じ、また、このことを信じている人々が希望を持って前向きに生きている姿から、その証を得ています。

 神様の約束は「死んでも生きる」と聖書に記されいます。この不完全な不自由な体でなく、天で永遠に神様と共に生きられる。この約束を信じることにより、一時的に今は悲しいけれども、希望があり、悲しみを乗り越えられるのだと思います。この世だけの生に限定されないが故に、この世でも自由があります。このような命を与えてくれたイエス・キリストに感謝しつつ、この牧師さんのご家族と職場の方々の上に、神様の慰めが与えられますよう祈りたいと思います。

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」 ヨハネによる福音書11章26節

神様は乗り越えられない試練は与えない

2019年02月14日 | 日記
 オリンピック金メダリストの池江さんが白血病を発症されたことに関するニュースが、この連日報道されています。彼女の発言の中で、これは?と思ったことがありました。「神様は乗り越えられない試練は与えない」これは、聖書を知っているクリスチャンであれば誰でも聞き覚えのある、また私は何度もこの言葉に励まされている言葉です。

 人は試練や困難、危機的状況になると、神に助けを求めます。普段信仰心のない人でも、特定の神を知らない人でも「困ったときの神頼み」として、日本人の場合神社やお寺などに拝みに行くことでしょう。そして、その問題が願いとおりに解決される、そのご利益だけを求め、自分の思ったとおりに願いがかなえられないと、他の神に頼みにいき、物事がうまくいっているときは、神を意識することがあまりないと思います。

 聖書の神様は、それとは異なり、必ずしも人が願ったとおりに病気が治ったり、困難な状況が解決されたりしない場合もあります。またクリスチャンになったからとって、この世に生きている限り試練に遭うし、全て順調に物事はいきません。ある人は、「なぜ神様はこんなに試練ばかり、私に与えられるのか。」というほどに、次から次へと辛い状況に遭われることもあります。しかし、その場合でも、私たちの想定外のやり方で試練からの脱出の方法が与えられます。つまり、必ずしも私たちが常識的に、こうなって解決されると予想する通りでない場合もありますが、必ず神様の備えた脱出方法が与えられます。また、神様は乗り越えられない試練は与えないと信じられる、希望の約束が聖書に書いてあります。そのことを信じるか信じないかはもちろん、個々人の問題であります。多くの人は自分の力で乗り越えようと、神という存在抜きで、自分を奮い立たせて頑張るのではないでしょうか。しかし、誰もがそのような“強い心”を持っているわけではありません。

 もし神が存在し、私たちを愛しているなら、全て幸福な状態に保ってくれるはずだというのが、人間側の論理です。なぜ、人がしたことに因果関係がなく、病気や災害がその人におこり、多くの人が命を失い、遺族は悲しみの淵に置かれるのかは私もわかりません。ただ、自分自身も経験からわかることは、試練を通ることによって、より神様を求めるようになり、乗り越えられるような強さを自分で作り出さなくても与えられ、そして耐え忍ぶ力も与えられることです。すべてが順風満帆であると、与えられている恵が当たり前になり、感謝の気持ちも薄れがちです。しかし、当たり前のようにうまくことが進んでいるのは、この世に生きている間、実は神様の守りと恵があるからであり、自然とそうなっているわけではないことを、信仰によってとらえることができます。当たり前に、太陽が昇り、月が輝き、雨が降る。しかし、神様は悪人にも善人にもかかわらず全ての人の上に、物質的な自然の恵みを与えられるだけでなく、精神的な魂の恵みを与える、つまり平安を与えようとされている方です。ただ人間側が自分の思いが強くて、それを受けようとしないし、神様のほうも信じろと強制はしません。

 試練や困難は表面的には悪いこと、悲しいこと、不都合なことであり、不条理に見えるかもしれません。しかしそれが起こることを神様が許しているのは、何かそれに意味があり、良いことに変えられる、他者に意味のある影響を及ぼす計画があるからだと信じます。もちろん、感情的には悲しみがあります。その悲しみに対して、神様は慰めを与え、立ち直れるように導いてくれる優しい方です。決して神様が意地悪で、罰(ばち)を与えるためにその人に悪いことが起こるのではないというのが聖書の神様の性質です。

 彼女を含めて多くの病に苦しんでいる人々が元気になって回復されること、また彼女らの心が強められてこの試練を乗り越えられるよう、神様が脱出の道も備えて下さることを信じられるよう祈っています。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント人への手紙10章13節)

在日外国人

2019年02月01日 | 日記
 私の住む那須塩原市にはたくさんの工場があり、外国人の労働者の方々も働いています。インドなどアジアからの人々が多く、道を歩いている家族づれや、自転車で移動している外国人の方々を時折見かけますし、私たちの教会は日英同時通訳で礼拝をしているので、外国人の方々が日曜に来られています。

クリスマスの時に、あるインドの女性が教会で日本での生活のことを分かち合ってくれました。彼女は夫の仕事のため幼い子どもと共にやってきましたが、最初は生活に慣れるのが大変だったそうです。言葉、文化、食べ物、全てがインドと異なり、たくさんの不安と不便もあったそうです。生活のために彼女自身も日本で働きたいとも思っていましたが、それも難しく、また子どもを日本の幼稚園に入れたいとも考えましたが、保育費が高く、難しかったようで断念されたとのことです。日本では自分で思い描いていた生活の通りにいかなかったそうです。

しかし、彼女は神様が導いてくれるという信仰で、思い描いたこととは異なりましたが、それ以上に良い機会が与えられたと感謝していました。クリスマスの時期には教会のキャロリングに参加し、高齢者の施設を回って一緒に賛美歌を歌えたこと、定期的に教会でのランチや、その他の行事に参加することで本当に恵まれて、楽しい時を与えられたと神様が備えてくれた日本の教会に感謝していました。私たちも、彼らに日本での良い思い出ができてほしいと願っていましたので、神さまが彼女の家族を異国地にて支え、恵を与え、導いてきたかを実際聞くにつけ、神様は素晴らしい方だと思わされました。この家族はこの春に任期が終わりインドへ帰る予定です。

 私はアメリカに住んでいた時、現地の教会に通っていましたが、外国人である私に教会のアメリカ人の方々はとても親切にしてくれたことを思い出します。特に、アメリカではクリスマス、感謝祭など家族で集まる時期に、家族がアメリカにいない私のような外国人を食事によく招いてくれました。また教会の様々な行事、集会にも積極的に声をかけて誘ってくれたものです。私が単身で孤独に陥らずにアメリカで生活できたのは、このような教会の人々の支えによったことは今でも感謝しています。彼らは、聖書の教えに従って、人に親切にし、仕えるという良い行いをしてくれていたのです。

聖書には、外国の人で寄留している人の世話をしなさいという教えが昔からあります。なぜなら、イスラエル人の祖先が4千年くらい前に、エジプトで400年間寄留していたこともあり、祖国を離れ外国に住んでいる人々、孤児、未亡人(当時は夫に先立たれると生活ができなかった)の弱い立場を考慮し、良くしてあげなさいという教えでもあります。また、クリスチャンは、この世にあって寄留者、旅人のようであると聖書に記されています。なぜなら、この世ではなく天国が最終目的地なので、それにむけての旅路がこの世での生活であるからです。そのような前提で生きると、この世での生き方が自ずと変わってきます。この世での富や生活の豊かさに対する執着が減らされ、また今の困難な状況、苦しみがあっても、これだけではないという天での希望が今生きている人生をも支えてくれるからです。

現代の日本も、外国人の在住が増えてきています。周りにそのような方がいたら、親切にする機会を持てたらいいなあと思います。自分が以前してもらったからということだけでなく、自分もこの世では寄留者であり、神さまがその寄留者であるすべての人を愛し、生活を支えて下さっていることを覚え、人間同士も互いに助け合い、親切にしあう事、それが神様の私たちにしてほしいことだと信じます
 
 「(あなたがたの神である主は)みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。」  申命記10:18~19