Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

アメージング グレース

2022年09月25日 | 日記
 先日、ウガンダ、ケニアというアフリカの国、インドネシアの留学生達の話を聞く機会がありました。彼らは、アジア学院という農業訓練指導者の専門学校の学生で、この度益子教会の礼拝に参加し、彼らの国のことを分かち合ってくれました。特に、ウガンダの学生の話が衝撃的でした。近年彼のフィアンセ(ウガンダ人)とアメリカ人の女性と3人で、”Girl’s Now”という、若い女性たちのためのNPOを立ち上げ、活動していることを話してくれました。新型コロナウイルスのパンデミックで、政府の政策であるロックダウンにより、国の経済は大打撃を受け、人々は仕事を失い、大勢の人が貧困状態になると、多くの10代の女性たちが親に売られてしまうという恐ろしい現象が広がってしまったというのです。彼らはこのことに心を痛め、女の子たちを守るための活動や彼女たちへの教育を、行政機関とともに協力して行っているとのことです。またアメリカなど西欧諸国の同世代の女の子と彼女たちが文通をできるしくみも作り、支援金を募るということもしているそうです。
 
日本でもコロナで仕事を失い、多くの人が貧困状態になったとしても、親が子供を奴隷として売買することはできません。しかし日本では戦前はありました。現代でもなおそれが他の国々でまかり通っているということに怒りを覚えます。他国を責める資格はないのですが、資格がなくとも、人を売買し、所有物として何をしても良いという考え方を許してはならないと思います。残念ながら、まだ世界の国々で子供が教育も受けられず、働かされ、人身売買されることを取り締まる法律、制度が行き渡っていない地域があるという現実について深く考えさせられました。

 神様ははじめに人を創られた時、その愛のご性質からすると人と人との関係において、一方が他方を支配し、奴隷とすることを望んでいません。人が奴隷制度を作ったのであって、神様が作られたのではありません。神様は人を「良いもの」として創られ、互いに愛し合う、つまりお互いをいたわり、尊重しあう、平和な関係を持ってほしいと願われているはずです。遠いアフリカの国の問題としてだけとらえず、日本でも辛い思いをしている子供たち、大人たちはたくさんいることを覚え、神様の助けが与えられるように祈っていきたいと思います。また、一日も早く、人身売買にかかわる人たちが悔い改め、人をだまして搾取するようなことをやめるように祈ろうと思います。「アメージング・グレース」を作詞した英国人は、かつては奴隷船の船長でしたが、自分のしたことを悔い改め、こんな自分をも救った神様の驚くばかりの恵みを表し、今やクリスチャンでない人も耳にする有名な曲となっています。神の招きと恵はすべての人に注がれています。

 そして、この地域にて何かそのような方々と出会う機会が与えられた時、小さなことでも助けになることが出来たらと願っています。なによりも、日々与えられる聖書のみことばによって、他者に仕える心を持てるよう、神様に祈り求めていこうと思います。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」エフェソ信徒への手紙1章17-18節

リトミック教室見学

2022年09月18日 | 日記
 先日、氏家キリスト教会ヒカリ園で月に一度開催されている、園児のリトミック教室に夫と二人で見学をさせて頂く機会がありました。折しも益子教会でこの9月から「親子でゴスペル」という企画を始めたことを、たまたま他の会議にて話すと、「うちも子供たちのためのリトミック教室をやっているので、参考にどうぞ見学に来て下さい」と、園長(牧師)先生が誘って下さったのです。

 見学してまず思ったことは、園児たちが皆楽しんで、自由に動いていたことです。先生のいう通りに皆が動かなくとも:つまりある子は駆け回る、ある子は太鼓をたたく、ある子は泣いていてスタッフやお母さんに抱っこされている、不思議と音楽、リズムに合わせて全体が調和されている様子に驚きました。他の幼稚園だと、みながよく先生のお約束を守り、きちっと同じ動きをする、静かにするときは静かにするとして、秩序が保たれているでしょう。もちろん、それはそれで素晴らしいと思います。一方で、皆が同じ動きをしなくとも、子供が音楽に合わせて、それがどんなジャンルであれ、歌ったり、踊ったり、駆け回ったり、とにかく一人一人が自由に動く、子供たち一人一人が自分を表現し、何よりも「楽しんでいる」という形態が集団保育で成り立つのだと新しい発見がありました。子供たちのパワーに力を与えられ、益子の親子ゴスペルもいつか、子供たちがゴスペルに合わせて、このように楽しむ時間となればと、この見学によりイメージが与えられたことは感謝です。子供たちから学ばされることはたくさんあります。

 イエス様はこどもたちに対しては特別な眼差し、態度を持っておられたことが聖書にしるされています。弟子たちが、子供たちがイエス様の近くにくると、邪魔だから追い返そうとすると「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とイエス様は言われて、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました*1。イエス様は子供たちを優しさをもって受け入れるだけでなく、大人である弟子たちに対してこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」*2 これは、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というイエス様に対する質問に対しての返答です。つまり、こどものように「素直に」イエス様を救い主として信じる態度、また弱い者であることを自覚する謙遜な態度を弟子たちに求めておられるのではないかと思います。この「偉くなりたい」という弟子たちの動機は何でしょうか?

 もし「偉くなれば、他者が自分に従う」、そのような優越感を持てることを期待しているのであれば、イエス様の治める神の国に入ることが難しいわけです。神の国では神様に従順に従い、人間同士では、他者を自分よりも優れていると思うほど謙遜な思いを持つようにと記されています*3。これはイエス様が言われた、多くの戒めを集約した二つの大事な戒め「神を愛する、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する」*4に基づいています。神様に従わずに自分勝手な思いと行動をし、他者に対して高慢な思いでいるならば、尊敬しあうことも、平和を保つこともできません。争いは相手が悪いと思う、相手を見下し自分が上に立ちたい(マウント)という思いから始まるからです。

 このようなみことばは、日々自身の心に刺さります。自分はふと気が付くと、このような高慢な思いになってしまうからです。こどもたちから、いつもこの謙遜な思いを学ばされ、主イエス様に従い、高慢な思いを取り除いていただくよう日々祈り求めたいと思います。

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」  マルコによる福音書10章13-16節

*1 マルコによる福音書10:14,16節
*2 マタイによる福音書18:3-4
*3 フィリピ信徒への手紙2:3-5
*4 マタイによる福音書22:35-40