和泊町誌に戦時中の生活状況について、国頭地方の方が子供の頃の思い出として書かれていました。当時の様子がよく伝わるとても貴重な記録です。
子供達の服装
大部分は母の手織りの着物で、膝までの短い着物に小さな黒帯をしめていた。
学校へはほとんどの者がふろしきに教科書や学用品を包んで登校。
ぽつぽつ洋服を着る人がでてきたが、その生地は各自の家庭で母親が蚕を飼い、それからとった絹糸とばしょうの糸を混ぜて布を織り、それをカーキ色に染めて仕上げていた。
ミシンが1台も無かった時代は、仕立ても母親の手縫いであった。戦争が激しくなるにつれ衣料品はますます乏しくなり、着物も洋服もパンツも皆つぎはぎだらけとなった。
当家の叔母の話では、おばあさまも蚕を飼って絹糸をとって着物や洋服を作っていたそうです。兄弟姉妹が多かったので、殆どが母親の手作りで、下の子供たちはみんなお下がりで着ていたそうです。
子供達の夢
その頃の学童の最高の理想は軍人になること。ゆくゆくは陸軍大将か海軍大将になりたいと考えていた。軍人として大成するためには学問が大事ということで、3月末の卒業式や終業式に優良賞を頂くようにと努力をした。
召集令
昭和12年に日中戦争が始まり、昨日まで畑で土だらけになって働いていた沢山のおじさん達に召集令が下った。在郷軍人服を着て赤いタスキをかけて、決意を示しながら応召していったが、生きてふたたび郷里の土を踏むことができなかった人たちもたくさんいた。
戦争が激しくなるにつれて戦死者が続出し、今日も明日もというように村葬が行われた。村葬に参列するのは上等生で、村葬最初の頃は村民が参列して盛大に行われたが、あまりにも村葬の数が多いので、だんだん寂しいものになっていった。
大詔奉載日
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。
日本が「勝った勝った、また勝った」と勝の勢いに乗って戦線が次から次に拡大され、昭和16年12月8日の開戦を契機に、政府は今まであった「興亜奉公日」を「大詔奉戴日」と改めた。
この日は全校児童に対して校長先生が訓示をし、担任の先生からは「もう日本人には優劣の差は無い。日本人は世界の最優秀民族だ。君たちは良い時代に生まれた。戦争に勝った暁には、世界各国に行って日本語の先生になるのだ。」
といわれ、私たちも「どこの国に行って日本語の先生になろうか。」と真剣になって考えた。そのころは全国民あげて必勝の意気に燃え、大人も子供も口を開けば「滅私奉公」「一億一心」「国民皆兵」「鬼畜米英撃ちてし止まん」などという言葉ばかりだった。
終戦のことが島民にすぐに伝えられなかったのは、こんな状況下だったからかもしれませんね。
島民の生活は次回まだ続きます。