年末は薩摩時代の砂糖地獄をお伝えしてきましたが、今回は時代をぐ~んと戻して、当家のご先祖様と伝わる北山王の次男「真松千代:永良部世之主」が生きていた時代あたりの北山について書きたいと思います。
私の中での北山とは、怕尼芝や樊安知といった王の名前や、先祖である世之主は樊安知の弟であった説などがよく言われてましたので、その程度の認識でしたが実は色々と興味深い話があったのです。
今帰仁に流れ着いた源為朝伝説
琉球には源為朝伝説が残されているのはご存じな方が多いと思います。
琉球王府の正史『中山世鑑』に記されている舜天王は、源為朝の子であるという伝説です。
保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁でした。それでこの港を運天港(うんてんこう)と名付けたといいます。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて尊敦(そんとん)という男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。妻子が為朝の帰りを待ちわびたところが牧港(マチナト・まきみなと)と名づけられ、その尊敦と名乗る子が後の舜天王だというのです。
もちろんこれは伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したそうなのです。
このような意図で、為朝伝説は琉球最初の正史に記されることになったというのが、現代の研究者の見解なのです。
保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁でした。それでこの港を運天港(うんてんこう)と名付けたといいます。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて尊敦(そんとん)という男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。妻子が為朝の帰りを待ちわびたところが牧港(マチナト・まきみなと)と名づけられ、その尊敦と名乗る子が後の舜天王だというのです。
もちろんこれは伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したそうなのです。
このような意図で、為朝伝説は琉球最初の正史に記されることになったというのが、現代の研究者の見解なのです。
ちなみに琉球の正史とされる、「中山世鑑」「中山世譜」などは、薩摩侵攻後の薩摩支配下で書かれた物で、ずいぶんと史実とは異なる内容が記録されているようです。編纂にあたっては薩摩側の意向も多分に含まれていたでしょうから、薩摩の都合が良い内容に書き換えられていた可能性はあります。このあたりは別記事として書こうと思います。
南宋平家が築いた今帰仁城!?
為朝伝説が薩摩時代に作られたという疑惑の伝説に対して、琉球にはもう一つの伝説があります。それは平家の落ち武者伝説です。まぁこれもどこにでもある伝説と言えばそうなのですが、この南宋平家についてはちょっと真剣に理解し紐解きをしたいなと思っております。
世界遺産ともなっている今帰仁城。城は緑深い山の中に忽然とその城壁は現れます。こんな人里離れた山の中に城が、、、と驚くような、ちょっと秘密基地めいた感のある城です。城壁は台地の地形に合わせてくねくねと曲がりうねって巡らされており、こんな山の中に城壁を作るためのおびただしい石をどうやって運んだのだろうか?と、不思議に思います。
北側は志慶真川の渓谷に臨んでいて断崖絶壁。東南には城を抱くような山並み。難攻不落の構えだと言われている城でした。そんな城も部下の裏切りで落城するのですが、そのことは別記するとして、この城の上部からはエメラルドグリーンのサンゴ礁のリーフ超えて、青い海原の向こうに北の海が開けており、奄美群島の方からやってくる侵略者の見張りもできるような築城となっています。
この今帰仁城は、平家の落ち武者が逃げ落ちてきて築いたという伝承もあるのです。
平家の落ち武者と言えば、沖永良部島の世之主の四天王の1人であった後蘭孫八も南走平家の後裔と言われています。苗字も「平」です。
『おもろ草紙』に見る南走平家
琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。第14-46に以下の歌があります。
勢理客のノロ アケシの神女の
雨ぐれ降ろちへ 鎧濡ちへ
運天つけて 小港つけて
嘉津宇岳(に) 下がる
雨ぐれ降ろちへ 鎧濡ちへ
大和のいくさ 山城のいくさ
「運天港から上陸した大和・山城の鎧武者どもを勢理客神女やアケシ神女たちが、嘉津宇岳にかかっている雨ぐれを乞い降して、ずぶぬれにさせたとさ」という歌のようですが、南走平家説を支持しておられた沖縄の歴史研究家であった奥里将建先生(故)によれば、この鎧武者どもとは平家の一行だったとのこと。運転港の語源が「運を天に任せて上陸した港」の意味であるなら、源氏方に追われていた平家にして初めていえる事だろうと。また、運天港を中心とする今帰仁や羽地の両村には、嵐山・大井川・音羽山といった京都的地名も散在しているのだそうです。
沖縄全域を見た場合にも、平家と関連する京都周辺と同じ地名が沖縄の中に沢山あるのだそうです。そして沖縄で使われている言葉は、京言葉が語源となっているものが多いということ、そして沖縄の古典芸能などもやはり京都と関係しているのだそうです。
現在のところ、まだ正史として確実なところは分かりませんが、その可能性が高いのではないのかなと思っております。
今帰仁の勢力
山の中に忽然とある今帰仁城ですが、実は城につながって西の方には平坦地が広がって今帰仁村があり、南側には志慶真村もあり、昔は城を中心として村々があったそうです。
今帰仁の勢力は、付近の村々から更には名護・大宜味・国頭まで伸びていき、北山圏を広げ、さらには親泊の港を使って、奄美群島まで交易圏を広げていったようです。
こんな今帰仁城の成り立ちについての話ですが、次回は北山時代の出来事について書きたいと思います。