戦争は大人たちだけの戦いではありませんでした。たくさんの子供たちも本土から遠く離れた、そして激戦地の沖縄に近い南の島で、日本国民として戦争と戦っていたようです。
学校での訓練
心身鍛錬のため、学校では毎日乾布摩擦や団体訓練、そして示現流の練習、後には竹槍訓練まで行われるようになった。
特に若い男女の意気は物凄く、男子は志願兵や産業戦士として、女子は看護師や産業戦士として次々に応募していった。
昭和22年の高等科2年のとき、現在の町役場、当時の和泊国民学校で海軍志願兵の採用試験があった。町内の男子が先を争って受験。最初の学科試験では大部分の者が合格。次の身体検査で合格・不合格に分けられた。不合格者には微募官が「お前たちの愛国の至情は誠に尊いものであるが、今入っても小さなお前たちに合う洋服が無い。これからも一生懸命勉強し、身体を鍛えてまた来年受験しなさい。」と言われた。同級生からは4名だけ合格だった。
身長制限があるのであれば、学科試験より先に身長のチェックがあっても良さそうですが、愛国心を試したかったのか?
そして示現流の練習が行われたのには驚きです。それは武士の時代から鹿児島県独自の武道であったからのようです。立木または横木打ちが行われたそうです。
食糧の増産
昭和16年頃から学校の名前が国民学校となり、その頃に一番強調されたのは食糧増産であった。学校では高等科はもちろんのこと、尋常3~4年生まで畑を借りて芋や麦を作った。地元の方が畑を貸してくれたり、高等科の男女は荒地を開拓して麦を作った。また出征軍人や軍属の家庭では働き手がいないので思うように食糧増産が出来ないため、農繁期の都度高等科の生徒が手分けをしてその留守宅に奉仕作業に行った。
陣地構築作業
越山に守備隊が駐屯するようになってから、高等科の生徒は1週間のうち3日ずつ陣地構築作業に行くようになった。作業に行く時には、暗いうちに起きて朝食を済ませ、鍬やヒヤーギ、それから芋弁当を持って出かけ、8時頃までには越山に到着。越山では兵隊さんの指示に従って、横穴掘り、縦穴堀りに協力し、竹やり訓練の指示も度々受けた。作業の終了は午後4時頃であった。
本格的な空襲の始まり
沖縄戦が始まろうとするころからは、空襲で学校は危険だということで、ヒジヤゴ山で学習したことがあった。昭和20年3月、数千隻の米艦隊が沖縄を取り囲み、終日、数万発という不気味な艦砲射撃の音が聞こえ、沖永良部の沖にも米艦が姿を現すようになり、それと同時に本格的な空襲が始まった。上空には常時グラマン機が数機飛来し、絶えず機銃掃射を繰り返し、空襲と同時に学校は休校となった。
島民は老若男女全部、鍾乳洞窟や防空壕に待避し、唐芋植え等の増産活動は夜間に徹夜で行った。
米軍機の燃夷実炮射撃を前に、カヤぶきの家はひとたまりもなく燃えてしまうので、屋根のカヤを全部はがし取って骨組みだけにし、家族は砂糖小屋や防空壕などで生活をするようになった。
沖縄戦は日々激しさを増し「米軍は沖縄を制圧してから次は山が少なく平地の多い沖永良部島に上陸しそうだ」という噂が流れるようになった。
最後の死に場所として、全島民が各町内会単位に越山に待避豪を掘ることになった。高等科生も両親と共に待避豪を掘りに行った。
午前11時頃に兵隊さんが「国頭の学校が燃えている」と言ったので、学校の見える高いところまで夢中で駆け上がった。学校一帯は黒煙に包まれ、トタンや目の西校舎が火を吹いて燃えているのが見えた。町内会一同、声を発する者もなく、皆両眼に涙をいっぱい浮かべ、すすり泣きしながら見ていた。
国頭の学校は高台にあるのではっきりと見え、その上偽陣地も掘ってあったせいか殊の外空襲が激しく、学校が焼失しただけでなく、校地内やその周辺に250キロ爆弾が十数発落下し、直径十数メートル、深さ十メートル程の大穴がたくさんできた。ただ1つだけ残っていた南校舎の板壁等も全部爆風で吹き飛ばされて裸になってしまった。学生達が指折り数えて待っていた卒業式も無期延期となり、空襲下で4月5月と重苦しい日々が続き、6月の終わりのある雨上がりの暑い夕方、卒業生とその父母だけがヒジャゴ山に集まり、米軍機の爆音に怯えながら、淋しい卒業式をすませた。
とてつもなく心が痛くなり涙が溢れてくる。当時の様子がとても鮮明に伝わる体験談です。(和泊町誌より編集)
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