1946(昭和21)年2月2日、日本政府は連合軍最高司令部(略称GHQ)から、「日本領域」に関する重大な覚書を受け取りました。覚書はその日の午後四時半に、太平洋米軍総司令部民間情報教育部から発表され、これがいわゆる「二・二宣言」であります。
これによって日本の版図は大きく塗り替えられ、除外地域となった古来の領土であった北緯30度以南の琉球、奄美大島を含む南西諸島は行政上の権限が停止され、日本の領域から除外されました。
そして2月4日には本土と奄美間の「海上封鎖」が発表されました。
指令は以下の3項目。
1.本土、奄美間の一般旅行、この指令の日から禁止する。
2.本土、奄美間を渡航しようとする者は、永住の目的をもつ者に限って許可される。
3.渡航を許可された者は、計画輸送に従わなければならない。
分離宣言に続き海上閉鎖まで行われることとなり、島民のショックは相当なものだったそうです。
1950(昭和25)年11月、米軍のレーダー部隊が進駐してきて、テント兵舎とカマボコ兵舎を造ったそうです。兵隊は時によって増減があったようで、隊長も中尉であったり大佐であったりしたようです。
毎年感謝祭やクリスマスには、両町の主な人々が招かれ交流があったそうです。
駐留軍は救急輸送を援助し、輸血などにも協力してくれたそうです。
そして兵舎のある大山頂上から小米の街までの道路を舗装し、奄美群島における最初の舗装道路となったのだそうです。
昭和28年には国場組によってビルが出来、白亜の殿堂となったそうで、島では大変珍しい建物だったようです。
アメリカは永く大島を占領しようと思ってはいなかったとも推測され、その証拠にB円は発行したがドルは発行しなかったということと、英語教育も強制しなかったのだそうです。
本土復帰に向けて、様々な島民活動があったようですが、1953(昭和28)年8月8日にダレス声明があって、クリスマスに日本に復帰することとなりました。
当家のお爺さまが決心し家族を連れて沖縄経由で島を出たのは同年の4月のこと。まさか4ケ月後に日本復帰するとは思いもせず、島を出たのでした。
叔母たちは口々に言います。「もしあの時に島を出ていなかったら、どんな人生になっていたのか。」
和泊町誌と知名町誌からの米軍統治下の時代の島での様子でした。