昭和20年8月15日の終戦から少し遅れて8月28日に島民へ終戦の事実が伝えられましたが、その後は戦後の処理が始まったそうです。
和泊町誌や知名町誌を見ると以下の記録が書かれています。
*9月26日、守備隊長が各学校にあった御真影を越山に集めて焼き葬った。
*旅団指令部から中溝中佐が来て、米軍に武器弾薬を引き渡して海中に投棄した。その武装解除のとき、有川大尉の15センチくらい伸ばしたアゴヒゲが珍しかったらしく、米軍将校が写真を撮りたいが差支えないかと承諾を求めたので驚いた。米軍は鬼畜といわれていたのに、敗者の人権を尊重して礼をつくしたからである。
元来このヒゲは、戦死したときに死体が有川大尉と分かるようにと伸ばしていたのに、とんだ結末となった。
*9月16日の台風で民家が被害を受けたので、日本兵は住民への恩返しの気持ちで、毎日その復興と作業を手伝った。
*現地兵は10月20日に召集を解除し、部隊は輸送船の都合で11月30日に小米港から引き揚げた。後には、有川大尉と兵数名が残り、残務処理して12月30日召集解除された。
*軍が引き揚げたとき、越山兵隊の物資は和泊町と知名町の両町で等分された。
*知名村(現・知名町)では、焼失した戸数は1300戸であったが、町当局が大山の松材を開放して二間に二間半の家を建てさせ、材料は無償配布し、松材は無記名で申し込ませ、公定価格で分けられたので、知名村は他町村に先駆けて一応の住宅が整った。
*終戦後は電灯が無く不自由であったが、原田氏という方が苦心の末にやっと昭和23年10月1日から点灯できるようになり、30年に大島電力に合併し39年から24時間の点灯が実現した。
このようにして徐々に戦後の生活が穏やかな日常に戻っていったようですが、生活物資や食料はまだ十分とは言えない状況だったようです。
そして昭和21年2月2日午前7時のラジオ放送で、東京連合軍最高司令部から日本政府に覚書を交付し、「北緯30度以南の奄美諸島は、日本本土より行政的に分離した。」という衝撃的なことが報じられたのです。
島民のかなり大きく、奄美の人々は放送日にちなんで「二・二宣言」と呼んだそうです。