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先祖を探して

Vol.297 第二次世界大戦(7)戦後すぐのこと

昭和20年8月15日の終戦から少し遅れて8月28日に島民へ終戦の事実が伝えられましたが、その後は戦後の処理が始まったそうです。
和泊町誌や知名町誌を見ると以下の記録が書かれています。

*9月26日、守備隊長が各学校にあった御真影を越山に集めて焼き葬った。

*旅団指令部から中溝中佐が来て、米軍に武器弾薬を引き渡して海中に投棄した。その武装解除のとき、有川大尉の15センチくらい伸ばしたアゴヒゲが珍しかったらしく、米軍将校が写真を撮りたいが差支えないかと承諾を求めたので驚いた。米軍は鬼畜といわれていたのに、敗者の人権を尊重して礼をつくしたからである。
元来このヒゲは、戦死したときに死体が有川大尉と分かるようにと伸ばしていたのに、とんだ結末となった。

*9月16日の台風で民家が被害を受けたので、日本兵は住民への恩返しの気持ちで、毎日その復興と作業を手伝った。

*現地兵は10月20日に召集を解除し、部隊は輸送船の都合で11月30日に小米港から引き揚げた。後には、有川大尉と兵数名が残り、残務処理して12月30日召集解除された。

*軍が引き揚げたとき、越山兵隊の物資は和泊町と知名町の両町で等分された。

*知名村(現・知名町)では、焼失した戸数は1300戸であったが、町当局が大山の松材を開放して二間に二間半の家を建てさせ、材料は無償配布し、松材は無記名で申し込ませ、公定価格で分けられたので、知名村は他町村に先駆けて一応の住宅が整った。

*終戦後は電灯が無く不自由であったが、原田氏という方が苦心の末にやっと昭和23年10月1日から点灯できるようになり、30年に大島電力に合併し39年から24時間の点灯が実現した。



このようにして徐々に戦後の生活が穏やかな日常に戻っていったようですが、生活物資や食料はまだ十分とは言えない状況だったようです。
そして昭和21年2月2日午前7時のラジオ放送で、東京連合軍最高司令部から日本政府に覚書を交付し、「北緯30度以南の奄美諸島は、日本本土より行政的に分離した。」という衝撃的なことが報じられたのです。
島民のかなり大きく、奄美の人々は放送日にちなんで「二・二宣言」と呼んだそうです。


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コメント一覧

yononushi
@cozycycle1717 さん
戦後の状況は本土とこちらで書いている沖永良部島では若干状況が違っていたかもしれません。
いずれにしても、国内のあちこちで戦後の様々な状況があったでしょうね。
cozycycle1717
こんばんは♪

戦後直ぐの事は、知らない事だらけなので興味深かったです。
(父親も中学生なので大きな動きは知らない)

ミッドウェー海戦に参戦された海軍の下士官だった方から聞いて興味深かったのは、
8月15日以降でも、いくつかの基地では徹底抗戦を主張する司令官が居て、
そこに『御指示なので従うように』と4~5人で死ぬ覚悟を決めて交渉しに行ったそうです。

マァ,確かに海軍は、粗,壊滅していましたが、
陸軍は本土決戦に備え、長野県に巨大な地下壕を掘ったり、多くの飛行機を備蓄していた基地も有ったそうですので〜

本来、国民を保護し守る筈の軍隊ですが、多くの場合は逆になりますね~
┐(´д`)┌ヤレヤレ
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