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先祖を探して

Vol.349 世之主由緒書を紐解いてみよう(3)

世之主由緒書の次の箇所は、世之主の奥方のこと、自害に至るまでのことや子供達のことが書かれています。今回はその前半部分を考えてみました。

原文
一、世乃主かなし御奥方の儀ハ中山王の姫にて、御名前真照間兼之前と申唱候
  由。

一、本琉球の儀、三山御威勢を争へ、度々合戰為有之由。然処北山今帰仁城之
  儀ハ、中山之大将本部大原(モトブタイハラ)と申すものより被攻亡さ
  れ、南山も落城終には中山一統にて相成為申由。
  右二就て世乃主かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄、中
  山より和睦之使船数艘渡海有之候由未実否御聞届も不被成、此方事北山之
  二男にて候得バ、中山より軍船ハ相違無之候。
  左候へば小島を以て大国へ難敵と、直二奥方を始め御嫡子其外無残御差違 
  へ御自害之由。



現代文
一、世乃主かなしの奥方は中山王の姫君にて、その名を真照間兼之前と申します。

一、そのころ琉球本土では、中山・南山・北山の三王族が互いに勢力を争い、たびたび合戦が起きていました。その折も折、北山の今帰仁城は中山の武将〈※〉・本部大原(モトブタイハラ)によって攻め滅ぼされ、次いで南山も落城し、ついに中山が琉球全土を統一するに至りました。そのような情勢を知った世乃主かなしは、頼りの親元の親族もおらず小さな沖永良部島で、一族の行く末を案じながら鬱々と日々を過ごしていました。ちょうどそのころ、中山より和睦を結ぶための使者を乗せた船が数隻、海を渡り沖永良部島にやってきました。世乃主かなしに反逆の意思などありませんでしたが、北山王の二男という身分であります。和睦のためとはいえ中山王の軍船が島にやってきたことに変わりはなく、「沖永良部島のごとき小島を盾にして、大国である中山王になど、とても敵うまい」。そう思いつめた世乃主かなしは奥方をはじめ子供や親族を集めると、無残にも互いに刺し違え、一族もろとも自害なさいました。



世之主の奥方は名前が真照間兼之前。そしてここで1つ気になるのが、奥方が中山の姫であったということです。
この中山の姫というのは、中山、北山、南山を滅ぼして琉球統一をはかった第一尚氏を指しているのが、それとも、もともとあった察度王統の中山のことを指しているのか?

世之主の生卒が分からないので確かなことはいえないのですが、考察年齢から見るならば、どちらの娘であってもおかしくありません。
しかし、両王統の中に真照間兼之前に該当するような人物が見当たりません。これはいったいどうしたことか。琉球の歴史の中でよく出てくるノロとの子供であったのか?
以前にも奥方の名前など考察して書きましたが、今のところ全く可能性のある人物がいない状況です。

本部大原は中山の武将であると書かれていますが、これは北山の書き間違いであると思われます。
沖縄側に残る伝承として、攀安知の部下であった本部大原は攻めてきた中山に始めは王と一緒に戦いますが、途中で中山に寝返って攀安知をだまし、北山を滅亡させてしまうのです。

また、ここには北山が滅び中山の和睦の船がやってきた時期が情報として書かれています。これは、世之主が自害した年でもあるわけです。
通説では、北山滅亡の1416年頃(1422年の説もあり)といわれていますが、この由緒書には南山落城後に中山統一がなされ、世之主は悶々とした日々を過ごしていたとあります。南山が滅ぼされたのは1429年。その後に和睦の船がやってきたというのです。
この頃の世之主の親元であった今帰仁城の動きを見ると、北山滅亡後すぐに今帰仁城には尚巴志と一緒に戦った護佐丸が北山守護として配置され、1422年に尚巴志王の長男であった尚忠(後の第三国王)が北山監守として配置されるまでは護佐丸が6年間ほど北山地方の統治を任されていたのです。
そして護佐丸は後に自分が居城する座喜味城を1420年頃に完成させています。
築城時期については諸説あるようですが、北山守護であった1422年までには完成していると考えられているようです。
そしてこの築城には与論、沖永良部島、喜界島など奄美の島々から人夫を徴発したということですので、これは護佐丸の支配が奄美の島々まであったということを示しています。

沖永良部島にもその支配はあったはずですので、世之主が1429年頃に自害となれば、護佐丸が北山監守をしていた時代、そして次の尚忠が北山監守をしていた奄美地方の支配下の時代に、世之主が島の行く末を心配して悶々としていたことになります。
この時期はまだ完全に三山統一がなされていない戦乱の時期ですので、奄美地方の統治も完全ではなく中途半端な状況だったかもしれません。
そんな中に、ついに南山も落城し船が数隻島にやってきたとなれば、軍船と思い自害に至った経緯も理解できます。

中山にしてみれば、北山滅亡後から和睦船がやってきたと推測される1429年頃までの間、沖永良部島は反乱もせず座喜味城の築城に人夫を出すなど協力的であったので、三山統一後の奄美地方の正式な統一に向けて沖永良部島には和睦の船を向けたのかもしれません。
北山滅亡後すぐに和睦船を出していたとするよりも、なぜ和睦船だったのかの意味がすんなり納得できるような気がします。

これらの考察は、由緒書に書かれている三山統一後の1429年頃に和睦船がやってきたであろうという設定での話です。
色々な見方や考え方もありますのでこの限りではありませんが、世之主自害の年が1429年頃だったとするならば、他の出来事の見方もまた変わってくるかもしれません。

次回は生き残った子供達のことです。


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