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先祖を探して

Vol.351 世之主由緒書を紐解いてみよう(5)

当家が琉球時代に代々大屋子を務めたことや、世之主の長女が住んでいた小庵のことなどが書かれています。

原文
一、右直城の子孫成長の上、中山王御取立にて代々大屋役仰付相勤来り候由。
  依之当之私迄も島中のもの共、大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候
  哉不祥候。
  右女子の儀、王女之故妻嫁に可仕似合無之、古城之下え結小庵一生寡二テ
  終り候由。右小庵之屋敷千今男子禁戒。


現代文
一、直城の若主はすくすく成長し、のちに中山王のお取立てとなり、沖永良部
  島で代々大屋役を仰せつかり、勤めに励んでまいりました。そのため、当
  代の私に至るまで島中の多くの者が「われわれは大屋の子孫である」と唱
  え申すのです。もっとも、これまで大屋役を何代にわたり勤めてきたか詳
  しくは分かっておりません。一方、若主の姉君は王女の血筋であったため
  、嫁ぎ先として釣り合う家も人も島内には居りませんでした。そこで古城
  の下に小さな庵室を結び、一生独身をつらぬいて生涯を終えられました。
  この小庵屋敷は昔から今に至るまで男子禁制とされています。


次男はその後成長して、中山王の取り立てにより大屋役(島の最高責任者)を仰せつかり、その後当家が薩摩の時代になるまでの約200年間ほどは、この大屋役を代々継承してきたということです。
ここで1つ分かるのは、次男が成長して大屋役になるまでの期間は、他の誰かが大屋役をやっていたということです。騒動があったのは二男が3歳の時ですので、16歳で成人とし、すぐに大屋子に任命と考えれば、約13年間は他の誰かが大屋子をやっていたことになります。
それはいったい誰だったのか?
琉球から派遣された役人だったのか?

騒動が通説の1416年頃であれば1429年あたり、1429年の南山滅亡後の騒動であれば1442年あたりに大屋子職に就いたことになります。
この年代はいずれにしても第一尚氏が今帰仁城を拠点とした北山監守を置いて以降のこととなります。そうなれば、島は北山監守の統治下だったのかもしれません。

第一尚氏時代に、大屋子という役職名がいつからあったのかは分かりませんでしたが、調べた範囲では第一尚氏王統第7代尚徳王の第三王子に屋比久大屋子(やびくおおやく)という人がいます。この人物は1470年頃以降の役職だと思われますが、この頃には大屋子という役職名があったことは分かります。


当家が代々継承してきた大屋子ですが、確かなる記録はありません。
証明できるものが残っていないので大屋子であったかどうかは断定はできませんが、平安統惟雄の時代まではそのように伝承されており、世之主の次男が住んでいた直城に1700年代までは住んでいたこと。そして、薩摩侵攻以降に島役人の最高職であった与人に取り立てられ、代々与人をやってきたところを見れば、琉球時代にはやはり大屋子職に就いていたことは確かなように思われます。

徳之島から帰島後に住んだ場所は直城で、この丘の山頂に屋敷があったようです。そのすぐ下の辺りに、1700年代まで宗家の屋敷がありました。そこが土砂崩れにあい、神社のすぐ下の北側に引っ越しをしています。
このあたりの話は以前にも書きましたが、屋敷があった場所には昭和の始め頃までは大きなフクギが3本あったといいます。古老の話によれば、フクギはこの島には自生していないので、沖縄などから運んで植えたと思われるし、成長に時間がかかる木ですので、あれほど大きく成長していたことを考えると、ずっと昔に植えられていたことが分かるそうです。この場所がそのまま残されていたならばと、本当に残念に思ってしまいます。

ここでのもう1つのポイントは、長女が住んでいたという小庵です。
世之主由緒書には、「この小庵屋敷は昔から今に至るまで男子禁制とされています。」書いてあります。由緒書が書かれた1850年には、まだその小庵は存在していたようです。
実際に、現在90歳を超える叔母の話では、その叔母から見ての本家の伯母さんが、その小庵に掃除に行っていると聞いていたそうです。
その伯母さんは明治期の生まれで、昭和の時代までいらした方です。昭和36年頃まで掃除に行っていたということですので、60年程前までの話ですね。

その場所なのですが、叔母は昔にその場所を聞いていたそうです。しかし神社付近の開発が進み、道路が新しくできたり、山が崩されたりして景観が変わってしまったため、はっきりとは分からないのだそうです。
お爺さまの記録には古城地周辺の地図があり、古城地の下に女子殿と書かれた場所があります。



青丸のあたりが該当地のようです。この場所は、古老の話によれば世之主の母方の家の方がずっと昔に住んでおられたということを以前聞かれていたそうです。
本家の叔母が掃除に行っていた場所であり男子禁制といえば、おそらく火神などを祀っていた場所ではなかったかと思われます。
伝承では世之主の母方はノロの家。火神を祀っていたとしてもおかしくないですね。



別の写真がありました。アングルは違いますが、黄色の丸の箇所が女子殿があったと思われる場所です。
はっきりとは分かりませんが、木か石のようなものがあり、ぐるっと囲われているようにも見えます。この場所に本当に女子殿があったのかは確定できていませんが、世之主由緒書の内容からすれば可能性があります。

何もかもが無くなってしまい、あるのは伝承のみ。
こうして伝承の地を探して、形跡を探るぐらいしかできませんが、いつか専門家による調査が入り、何か発見されることを期待したいです。



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