こうして世之主由緒書をじっくり読んでいくと、様々な歴史の部分が見えてきました。今ではもう忘れ去られようとしてる世之主とその時代のこと、そしてその歴史を脈々と受け継いできたそのまた歴史、平安統は近代化へと進む時代の流れの中で、これらのことが薄れゆき、忘れ去られてしまうであろうという危機感を持って記録に残したのだろうと思います。
先祖調査で在島していた時にお会いした大学の教授がおっしゃっておりました。
このような記録は、世の中の何か大きな動きがあったとき(薩摩による島民への締め付けが大きくあった時など)に書かれたようだと。自分たちの先祖のことや存在を大きくアピールすることで、自分たちを守っていくということでしょうか。
先祖調査で在島していた時にお会いした大学の教授がおっしゃっておりました。
このような記録は、世の中の何か大きな動きがあったとき(薩摩による島民への締め付けが大きくあった時など)に書かれたようだと。自分たちの先祖のことや存在を大きくアピールすることで、自分たちを守っていくということでしょうか。
確かにこの平安統の時代には、一族としては直城の丘の上にあった屋敷から土砂災害で城のすぐ下の北側に転居しています。400年ほど居住していた歴史ある地から離れたわけです。そういったことから、代々口碑伝承で伝わってきた先祖のことを記録に残しておかなければならないという気持ちが動いたのだと思います。
そしてこの平安統は薬園の管理者でもありました。
その時代、薩摩は財政難、琉球も同様で貿易の不振に対する対策を進めていて、これまでの日本から持ち込んだ銀で白糸、紗綾を購入して輸入するやり方から、昆布などの俵物を輸出して、漢方薬種やその他中国産品と引き換える形へと貿易方法をシフトさせていたようです。そして1801(享和元年)年、琉球側は薩摩に対して販売不振に陥っていた白糸、紗綾ではなく、漢方薬種を藩外に販売すれば琉球の困窮状態も改善するのではないかと提案していたそうです。そのせいもあってか、沖永良部島でも薬草が栽培され、平安統はその管理責任者であったようです。管理者がいたということは、それなりの規模で栽培が行われていたと考えられます。
その名残が島の親せき宅にはあったようで、その家の叔母が幼少の頃に、家の庭には薬草がたくさん植えられており、薬草を煎じる器具などがあったといいます。
このように平安統は薬園を管理する仕事をしていたわけですが、この頃には長崎商法、幕府、薩摩との間で貿易に関して実に様々な出来事が繰り広げられていて、少なくともその影響は島の方にもあったと思われます。
変わりゆく時代の変化の中で、自分たちの今後の行く末についても不安が広がり大きく考えることがあったのではないでしょうか。自分たち一族の存在をアピールするためにも先祖の由来や歴史を書き残したのだと思います。
600年前の一族の由来と島の歴史を綴った「世之主かなし由緒書」、今から173年前に残された貴重な記録だと思います。専門家によってもっと読み解かれ、新しい歴史的事実が判明していくことを期待します。