世之主由緒書の最後に記録されている附録です。附録の部分ではありますが、当家や島の歴史を知る上で重要なことが書かれている箇所です。
原文
附録
一、百(ヒヤ)と申候者、往古ハ百家部乃頭取仕申候村役々役名二而候由。
一、のる·久米と申すは女二而、村々神まつり仕申候村役二而御座候由。奥方
一、百(ヒヤ)と申候者、往古ハ百家部乃頭取仕申候村役々役名二而候由。
一、のる·久米と申すは女二而、村々神まつり仕申候村役二而御座候由。奥方
へも相対奉公仕為申由。干今古城え四季まつりに登城仕申候。
一、後蘭孫八 但シ後蘭村居屋敷干今御座候。
一 、屋者真三郎 但屋者村居屋敷干今御座候。
右二人共二世乃主ヘ相対奉公仕申候老臣と申伝御座候弐人共二長九尺余り
一、後蘭孫八 但シ後蘭村居屋敷干今御座候。
一 、屋者真三郎 但屋者村居屋敷干今御座候。
右二人共二世乃主ヘ相対奉公仕申候老臣と申伝御座候弐人共二長九尺余り
の大男にて候由。近年迄世乃主墓所へ骨御座候処、誠二人の骨などとは見
得不申候。
島人琉球人二而ハ孫八·真三郎杯と名乗不申賦り、多分ハ日本よりの落人
島人琉球人二而ハ孫八·真三郎杯と名乗不申賦り、多分ハ日本よりの落人
二而、世乃主ヘ奉公仕居為申者共二而ハ無御座候哉と申伝御座候。委敷由
緒相知り不申候。
一、古城之儀ハ島中一統より四季のまつり仕来申候。
一、直城之儀ハ島中ハ勿論、当内城村え(「も」カ)相構ヘ不申、私より四季
一、古城之儀ハ島中一統より四季のまつり仕来申候。
一、直城之儀ハ島中ハ勿論、当内城村え(「も」カ)相構ヘ不申、私より四季
のまつり万事支配仕居申候。
一、北山の古城今皈仁の城下玉城と申候由。右御二男御渡海之上御館を御構へ
一、北山の古城今皈仁の城下玉城と申候由。右御二男御渡海之上御館を御構へ
被為成候二付、当島玉城と玉城(稲戸部落)(注·以下記録されていない)
現代文
附 録
一、百(ヒヤ)と申すのは、かつて百家部の頭取(とうどり)を勤めた村役の
一、百(ヒヤ)と申すのは、かつて百家部の頭取(とうどり)を勤めた村役の
役名であります。
一、のる·久米と申す者は女にて、島内の村々の神まつりをつかさどる役人であ
一、のる·久米と申す者は女にて、島内の村々の神まつりをつかさどる役人であ
ります。彼女たちは世乃主の奥方の身近にもご奉公しており、古城には
「四季まつり」のため登城するとのことです。
一、後蘭孫八……後蘭村の住人で、その屋敷は今もその地にあるそうです。
一、後蘭孫八……後蘭村の住人で、その屋敷は今もその地にあるそうです。
一、屋者真三郎……屋者村の住人で、その屋敷は今もその地にあるそうです。
右の二人は長く世乃主のおそば近くで奉公してきた老臣で、両人とも二長
九尺余りの大男だったと伝わります。世乃主の墓所には近年まで彼らの骨
が祀られていたそうですが、本当に二人の骨かどうか今となってはわかり
ません。島の人や琉球人は「孫八」「真三郎」などといった名乗りはしな
いため、おそらく日本(薩摩)から流れてきた落人(浪人)で、沖永良部
島までたどり着き、世乃主のもとで奉公するようになったのではないか、
と言い伝えています。彼らの出身地など詳しいことは今もって、何も分か
りません。
一、古城の儀は、沖永良部の島の多くの人びとが四季のまつりにたずさわって
一、古城の儀は、沖永良部の島の多くの人びとが四季のまつりにたずさわって
きました。
一、直城の儀は、島の中はもちろん、この内城村にも関係する者がおりませ
一、直城の儀は、島の中はもちろん、この内城村にも関係する者がおりませ
ず、私が四季のまつりなど万事を取り仕切ってまいりました。
一、 北山の古城である今帰仁の城下を「玉城」と申します。北山王の二男、世
一、 北山の古城である今帰仁の城下を「玉城」と申します。北山王の二男、世
乃主かなしが沖永良部島へお渡りになられ、御館を構えたこともあり、当
島の玉城と玉城(稲戸部落)……
【注】以下、記録されていない。
1つ目に百(ひゃー)のことが書かれていますが、これは村の年貢を集める役割があった人のことのようです。琉球時代に村々に配置され、百戸ずつ担当しているというような意味合いで百と言ったようですが、実際には百戸も無かったようで、たくさんという意味の表現の1つのようです。この百は薩摩の時代になっても存在していたようで、役割の詳細が同一であったのかは分かりませんが、ひゃーと呼ばれる屋号の家が近代まで残っていたそうです。
一緒に釣りに出かけていた大城村の百が、現在の城跡に築城を勧めたわけです。百はその時に、あの場所は大城村の土地であると言ってます。現在は大城ではなく内城です。城が出来たから地名も変わったのでしょうかね。
そして世之主と一緒に釣りに出かけるくらいですから、百とはそれなりの地位だったのでしょう。
2つ目にはノロ(のろ久米)のことが書かれています。ノロは女性で、村々の神祭りを司る役人であったということです。琉球は尚真王の時代から祭政一致の体制が正式に導入されていますが、それ以前の世之主の時代も同様であったようです。
そして四季祭りにはノロが古城地へ登城し、祀りごとをやっていたようです。また奥方にも奉公とありますが、奥方とどう関わっていたのか大変興味深いです。
3つ目は四天王の1人であったという後蘭孫八についてですが、この由緒書が書かれた1850年には孫八の屋敷が残っていたようですね。
4つ目にはこちらも四天王の1人であったという屋者真三郎(やじゃまさばる)について書かれています。屋者村の住人で、こちらのお屋敷も1850年にはまだ存在していたようです。
孫八も真三郎も世之主に仕えた人ということですが、両人とも背が高く大男であったようです。そして、平安統が由緒書を書いた時代の近年まで、二人の遺骨が祀られていたが、本当に二人の遺骨かは今となっては分からないと書いてあります。
この「近年まで」という表現が気になります。
以前にも書きましたが、世之主の墓が1800年頃に崩落して納骨堂の遺骨をチュラドゥールに仮置きしていたことがあったようです。
チュラドゥールの納骨堂の中央に安置されていたようで、納骨堂の中は今でもその場所を開けて厨子甕が置かれていますので、この話は事実のようです。
平安統が由緒書を書いた時には、チュラドゥールの方へ避難中だったので、近年までというような書き方だったのかもしれません。
しかしここには、残り二人の四天王のことは書かれていません。四天王伝説は1850年以降に作られた話なのかもしれません。
そして、平安統は孫八も真三郎も名前からして大和からの落人ではないのかと考察しています。
5つ目は古城地での祀りごとについてです。2つ目にノロが登城して四季祭りを行っていたとありますが、島民の多くが携わっていたようで、島中をあげての祭りだったようです。明治3年まではシニグ祭が行われていましたし、昭和の初期頃までは古城地跡の神社で島中の島民が集まっていたような祭りが開催されていたようですので、それはこのノロを中心とした古来からの祀りごとの名残だったのかもしれません。
6つ目には直城の祀りごとについて書かれています。この直城は世之主の二男が徳之島から帰島し居住した場所で、当家のご先祖さまが代々居住していた場所でもあります。
ここでは、島中や内城(居住地域の村)にも携わる者はおらず、四季祭りは平安統が執り行ってるとあります。これは世之主の二男を祀った当家だけで行われている祭りごとだったのだと思われます。
当家としては世之主が始祖とはなりますが、世之主は島民全体の信仰の対象でノロが主体となった祀りごとが島中の者が参加して行われ、次男の方は宗家の始祖としての宗家だけで行っていたということでしょう。実際に宗家はこの二男の屋敷跡を火神殿内として祀っていたようなので、そこで行われていたのだと思います。
7つ目の最後に書かれている文は途中で終わっています。紛失したのか、書きながらの途中であったのか分かりません。
世之主が親元であった今帰仁の古城地であった玉城から島に渡ってきて、最初に館を構えた場所もそれで玉城というみたいなことが書きたかったのか。この地区は昔は稲戸(にゃーと)と呼ばれた地区だったようです。米がたくさん栽培されていたようで、その集落ということで稲戸と呼んでいたそうですが、いつのまにか読み方はニャートのままですが、漢字が玉城になったということのようです。いつのころからか、世之主伝説としてゆかりのある地の玉城の漢字が充てられたのかもしれません。少なくとも平安統がこの由緒書を書いた1850年には玉城の漢字であったようなので、それ以前のこと。島で漢字が使われたのは薩摩侵攻以降のことで1660(万治3)年に実施された万治検地と呼ばれる貢納を定めるための測量や地位査定を行い、検地帳を作成した時以降のようです。(稲戸の漢字が使われた経緯は別の記事にあります。)
そこから1850年までの間に玉城になったということでしょう。わざわざ漢字を変えるということは、何か大きな出来事でもあったのでしょうか。その経緯が知りたいですね。記述が途中で終わっているのが非常に残念です。
1つ1つじっくり紐解いていくと、この世之主由緒書には沢山の歴史が納められていると思いました。最後のまとめは次回に。