Vol.376の記事で、現在の世之主の墓の納骨堂に安置されている3つの厨子甕について書きました。伝承では世之主と一緒に自害した奥方と長男のものであるということですが、実はそうではなくて3代の世之主のものであったということでした。
昭和12年に沖永良部島を探訪された野間吉夫氏の「沖永良部島採訪記」(昭和17年出版)という本の中で、当家の曽祖父になる宗佐久平が野間氏と対面した時に語った話です。
野間氏は別の本である「島の黙示録」の中に、「沖永良部島採訪記」の中には書いていなかった情報を書いていました。
宗 佐久平のこと
曽祖父である佐久平は、野間氏と出会った8年後の昭和20年に79歳で他界しています。
いま現在、生前の佐久平のことを知っている人はもう誰もいません。家族の中に唯一残る情報は、世之主神社の神主をしていたということだけです。
それが野間氏の記録には、以下のようなことが書かれていました。
・佐久平翁のことを皆「神官」と呼んでいた。
・一寸見には、そこいらのお百姓と何ら区別する必要もなさそうに見えたが、雨合羽をつけた下から、羊羹色に褪せてはいたが紋服がのぞかれた。
・佐久平のその態度には、何となく厳粛なものがあった。
佐久平の息子である義経お爺さまも大変厳格で厳しい方だったそうです。その親ですから、やはり厳格で厳しい方だったのだと思います。
昭和12年当時はまだ現役の神官だったのですね。
紋服とは家紋をつけた黒い和服だったのでしょうね。それが色あせて羊羹色になっていたということでしょう。常に着用していたのか、客人が来るので着用していたのか、それは分かりませんが左三つ巴の紋が入った和服だったのでしょう。
ウファの様子
・潜り門の板扉は、もう既に腐れかけていた。
・墓全体が荒れているように見えた。
・墓だと示す立て看板も無い。
・第二の門の先は土地のしきたりに従って履物を脱いだ。
昔のウファは、周りも草木がうっそうと生えており今のように整備されていないので、荒れ果てた雰囲気があったのだと思います。まだ文化財としての認定も無い時期ですので、看板なども無かったのだと思います。
第一の門を入ると、広い庭がありその左右が畑として使われていたことは、以前にも書きました。
この両サイドの畑には、芋と大根が作ってあったようです。
野間氏が佐久平に誰が作っているのかを聞いたところ、「私の家のものが、、、」と答えたそうです。
第二の門の先は納骨堂の前に庭です。ここには青草が生えていたようで、昔は履物を脱いで入ったようですね。そんなしきたりがあったとは知りませんでした。
三代の世之主
佐久平の説明によれば、納骨堂に並ぶ3つの厨子甕は、左から順に初代の世之主(真松千代)、真ん中が2代目、右が3代目の世之主のものであったようです。昭和12年頃までは、この厨子甕は3代目までの世之主の遺骨が納められているという認識だったわけです。
墓守をしていた佐久平がそう話しているのですから、勝手に作った話ではなく、ずっとそのように伝わっていたのだと思います。
この昭和12年の時点では、初代と2代目の遺骨は既に粉々になっていたそうです。3代目のものは、遺骨が原形を留めていたようで、それを見た野間氏は昔の人はこんなに大きかったのかと驚嘆したそうです。
内城に住む90歳を超えた長老は、子供の頃に奉仕作業でウファを掃除したときに、厨子甕の蓋を開けて覗いたことがあったそうです。頭蓋骨があったことを覚えているということでしたので、3代目の世之主の厨子甕を覗かれたのだと思います。
野間氏が島の誰かと厨子甕のことを話したときに、その人が子供の頃には蓋がよくかぶさらないで、甕から白骨が少しはみ出していたということでした。
粉々になっていた初代と2代目の遺骨。3代目だけが原形を留めていたということは、その年代に開きがあったのか?
伝承によれば、初代の世之主はウファチジに最初に埋葬され、その後にウファが作られ改葬されたとのことですので、その時に粉々になったのか?
では2代目はどうなのか?
初代世之主と一緒に自害したという奥方と嫡子の遺骨はどこにあるのか?
なぜ3代目までで納骨が終わっているのか?3代目の後に、島の統治方法などが変わってしまったのか?
ここに島の歴史の謎があるような気がします。
火の神のこと
野間氏は不幸にも悪天候のせいで、世之主神社には登れなかったとあります。昔は今のように道が整備されていなかったので、崖と崖の間の狭い足場の悪い道(通称ナイバサマ)を登っていかなければならなかったので、悪天候の時には登れなかったのでしょう。
しかし、彼は大変に貴重なことを書き残しておられます。
「そこには火の神の石祠が残っているそうであるが、そこが昔火焚殿のあったところであろうとは、先日岩倉市郎氏の談であった。」
驚きです。私はずっとなぜ城の側に火神を祀った場所がないのだろうか?と考えていました。その場所が現在の神社にある石の祠であったというのです。
石の祠、あります、確かにあります。神社の社殿の奥の左側です。
ここは昔に寺敷にあった禅王寺という寺の廃仏毀釈で頭部を失った仏像が置かれている場所でもあります。
現在は頭部の無い仏像と一緒に、小さな普通の仏像が置かれていますので、お寺のような場所だと思っていたのですが、ここが火の神を祀っていた場所だったということですね。
この場所は明治36年頃に神社をここに作るときに地面を掘り下げたといいますから、石祠がもともとここにあったのかは分かりませんが、少なくとも城の敷地内にあったということでしょう。
火神をどのように祀っていたのか?
やはりノロがその祭祀にあたっていたのか?大変に興味深い情報です。
野間氏は世之主の母親についても書かれていました。
それは次回に書きたいと思います。