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先祖を探して

Vol.3 世之主って知っていますか?

先祖調査が始まった時に、最初に知った「世之主」。何?何のことだろう?と不思議な言葉でした。沖永良部島の歴史を知る上でかかせないのが、沖縄の歴史です。沖永良部島は琉球時代の沖縄と密接な関係にありました。

沖永良部を統治していた『世之主』

世之主(真松千代)は西暦1400年ころ、沖永良部島を統治していた島の島主です。琉球が北山、中山、南山と分かれていた時代で、沖永良部は北山の領地でした。

世之主である真松千代の母は沖永良部の美しい娘だったそうです。ノロである叔母と一緒に奉公(ほうこう)で北山【現在の沖縄県今帰仁(なきじん)村】にやってきました。とても美しかった娘は北山の王様に見初められ、北山王の子をお腹に授かりました。その後娘は沖永良部島に戻り、真松千代(ままちぢよ)を生みました(後の世之主)。娘は周囲にも本人にも出生の秘密を明かすことなく初めは育てていましたが、やがて7歳で真実を知った真松千代は父である北山王を訪ねます。北山王は真松千代を実子であると認めたましたが妾(めかけ)の子である真松千代と本妻の子である嫡子(ちゃくし)との間に争いになることを恐れました。北山王はその場では真松千代には何も与えずに、10年後に沖永良部島の土地と世之主の名を与えました。こうして初代沖永良部王が誕生しました。

この真松千代の出生については諸説あるようですが、母親は現在の要家(かなめけ)の人であったようです。(要家は現在は沖永良部には居住されていません)

世之主のまつりごとは民衆に慕われる立派なものだったといいます。優秀な四天王と呼ばれる4人の家来もいた。世之主は中山王の姫を奥方(真照間慕之前)をもらい、嫡子を3人もうけました。

しかし、琉球の北山、中山、南山の戦いが激しくなり、中山は南山を陥れ、北山も滅ぼした。中山は沖永良部島へ和睦の船を差し出したが、世之主はこれを軍船と勘違いし、大国には勝てないと判断し、自害したといいます。
また、別の説では、中山の和睦の船に四天王たちが様子をうかがいに行ったところ、中山から酒で歓迎を受け、四天王がなかなか戻ってこないため、世之主が四天王たちが討たれたものだと勘違いし、自害したという説もあります。

島にはりっぱな琉球式の世之主の墓があり、中には、中央に世之主と、殉死した奥方、嫡子の3名が、四隅には殉死した家来の四天王の4名(後蘭孫八、屋者真三郎、西目国内兵衛、国頭弥太郎)が眠っています。

世ノ主の墓のすぐ下の方には、世ノ主の一族が今も使っているチュラドゥールと呼ばれている美しくりっぱなお墓があります。


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