一月の第二月曜日が、成人の日。この国はいつからか、そう決めていました。連休を多くしても、民間企業では祝祭日が休業ではなかったり、土曜出勤を増やしたりするので意味がありません。かえって昔みたいに週の半ばにお休みがなくなって残念だったりも。
大人になったら、できることがたくさんあります。お酒が飲めるとか、煙草が吸えるとか、結婚できるとか、子どもがつくれるとか。
大人になったら、しなくちゃいけないことがたくさんあります。選挙とか、労働とか、納税とか。
でも、大人になったらできることは子どもであってもできることになっていて。
大人になったらしなくちゃいけないことは、大人になってもできない人もいます。
十八になろうが、二十歳をすぎようが、ほんとうの大人じゃない。おとなの役割を果たしていないということになります。
中国語で「大人」と聞くと、なにがしか尊称のように思えますが。なにもそこまで、偉い生き方しなくても大人はおとな。しかし、モラトリアムの長くなった昨今、聖人とはいかないまでも、正しいおとなになるまでは長きを要するようです。
近年、成人式でのいちぶの若者のマナーの悪さが報道されておりますね。成人式は人材不足であった戦後まもなく、おとな社会への仲間入りをしたことをお祝いするという意味で、一地方都市の祭典からはじまったものであります。若人こそが国の将来をになう貴重な宝だと褒め称えられ、かつ一人前であることの自覚を促し、責任を負わされる記念日。が、大人としての品格にかける行いの悪さにへきえきして、税金を投入してまで式典を地方公共団体がとりおこなうことの是非が問われてもいます。いっぽうで、いまは数少ない着物を着る機会として、呉服業界からはつよく存続の声があがっているのです。私も親戚筋に呉服店経営者がいますので、一言のもとに廃止を唱えたくはありません。
ところで、私ほんにんの成人式といえば。受験生でセンター試験の当日でありましたため、いけませんでした。そして、その夜自己採点してかなり青ざめた記憶が…。そのとき、志望校を急きょ変えたこと、下見にすら行っていない大学を受けたことから、いまのふざけた思考形態があるのかもしれません。
晴れ着というものを着ない人生でした。七五三で着物を着せられたら気分が悪くなったので、その後にどと、袖を通したいとは思いませんでした。鮮やかな紅い振り袖で写真におさまっている若い女を眺めやるたびに、母は私に勧めます。それが彼女の最後の晴れ姿。なにか華やかで嬉しいことがつづくと、明日にもそれが終わってしまうような、いいしれぬ不安があります。
思想の皮だけかさねて大人ぶっても、社会の衣を着ない人間はどこかしら子ども。いつまでも、そんなミッドチルドレン。
ところで新成人の四割は、将来を悲観しているそうです。確実に自分たちの子ども世代は親よりも生活が悪くなるのだと。でも、親は親で、いまどきの子どもみたいに甘やかされた子ども生活を送ったわけではないのですから、どちらがいいのでしょう。いま豊かな老後を送っている世代(全員がそうだとは言い切れませんが)は、何もない焦土から身を立てた。「豊かさは節度のなかにある」とゲーテは言っていますけれど。こんなに娯楽が発達して、消費しきれないほど商品があふれている。それがいくばくか失われたとしても、生活が貧しくなるわけではないように思えます。私は確実に払った分以上の年金はもらえなくなる世代ですが、そもそもこの制度じたいいろいろ不満は以前から取り沙汰されてしかるべきだったのではないでしょうか。自営業者で支払い年齢の六〇歳までに亡くなれば、何十年まじめに納めていたとしても、まったく無意味になるのですから。
私が成人をむかえたときはまだ不況まっただなかで、就職状況も思わしくありませんでした。いまの二十歳前後の子のほうが受験も負担が軽くて、就職の斡旋もされやすくて、子どもの頃からPCや携帯を買い与えられていて。よほど贅沢だと思うのですが。でも、私の世代も、うえの世代からみればきっと贅沢病な世代なんでしょうね。
さて、成人の日をとっくに迎えたあなたがた。大人になって幸せでしたか?
大人にならないとわからないことがわかったという意味では幸せですが。知るにつれて疑いを増すという点では不幸せだといえそうな私です…。
こういう、つまらないものの考えする大人が増えてるから、子どもも大人になるのいやがるんでしょうね、きっと。
一応、大人(になったつもり)なので、最後の問いにコメントを書いていいですか??
子供の時より、幸せというか、自分の足で人生を歩いてる感じがしますね。
子供の時は、毎日が霧の中にいるように不安でした。
今思うと、親がいないと生きていけないとどこかで解っていたからでしょうね。
そんな苦労知らず、世間知らずではいけないと思って18歳の時に自ら親元を離れました。
それから、自分で稼いで、食べて、暮らして、親からもらった体が病気になったりしながらも、
子供を授かることができて・・・幸せですよ。
でも、一歩どこかで違っていたら、この幸せはないものかもしれません。
日本の社会は、弱い者に不利で、暮らしにくい税金の使い方をしているので、
たとえば、私の親が急に倒れて介護が必要になったり、
私の主人が事故で亡くなったり、子供が何らかのハンデを背負って産まれてきたとしたら
このようなコメントができないでしょう。
実際にそういうことを体験されている方が小さなコミュニティで活動していらっしゃるのを見ると、
助けてくれるのは、国ではなく、友かなぁと思います。
いつどこで、思わぬ、事故や事件に見舞われるかわからない世の中、
これを失ったら立ち上がれないと思うほど大切なものが増えるたび、
弱くなってしまったと思うこともありますが、
子供の時過ごした灰色の毎日より、今過ごす毎日の方が鮮やかに色づいています。
なんて、自分のことを色々書いてしまってすみません。
またおじゃましますね!
ごきげんよう、eminamoti様。コメントありがとうございます。
>子供の時より、幸せというか、自分の足で人生を歩いてる感じがしますね。
人生が充実していると感じる時期は、それぞれ異なるのでしょうね。ひとには生まれついた運気があるそうですから。
私は大学に進学して親の膝下をはなれてから、もうずっといまの地域で暮らしています。家業が苦しく、父も入院してましたので学生時代も親から仕送りはもらったこともなく。ですから、貴女様のご苦労もわかります。いまeminamoti様がにぎられている幸せはまぎれもなく、貴女自身が努力して手に入れられたものですから誇っていいものでしょう。
>日本の社会は、弱い者に不利で、暮らしにくい税金の使い方をしているので、
格差社会だなんだのと言われていますが。じっさい、図書館であるとか、公共道路であるとか、これまでなにがしか税金の恩恵はうけてきたわけで。暮らしにくいとはいっても、昔の水呑百姓みたいに、白米が食べればなかったりするほどではないかなと、思いますね。
>実際にそういうことを体験されている方が小さなコミュニティで活動していらっしゃるのを見ると、助けてくれるのは、国ではなく、友かなぁと思います。
私もコミュニティでいろいろな方の人生を読ませていただきました。とりたてて自分だけが世の不幸を背負っているのでもなく、多くの方が生きることに迷っていたりするのは感じています。
ネット上のコミュニケーションに頼るのは、なんとなく現実の人間関係が打算的でうごいている反動なのかという気もします。とはいえ、ブログはじめて知り合えたブロガー様にこころを救ってもらったおかげで今の私が存在しているのも事実です。
あと、国がそもそも頼れないのはいまにはじまったことではないように思えますね。しかし、そうかといって日本人としての愛国心をうしなったり、反社会的な行動をとるのはどうかと。国というのはあくまで抽象代名詞みたいなもので。友人知人のつながりをひろげていった大枠でのとらえ方にすぎない。とはいえ、顔見知ったる相手ですら頼みにできないこともあります。助けてもらった相手にご恩返しは、自身できていないように思います。
>いつどこで、思わぬ、事故や事件に見舞われるかわからない世の中、
これを失ったら立ち上がれないと思うほど大切なものが増えるたび、
弱くなってしまったと思うこともありますが、
子供の時過ごした灰色の毎日より、今過ごす毎日の方が鮮やかに色づいています。
両手に荷物をかかえて自由になれないと思うか、その重みをいとおしいと思えるように強くなれるか。大人になるというのは、いってみれば自分の成長の証を子どもなど第三者にフィードバックできるかどうかなのかもしれないですね。強くて完成されたものとしての大人ではなくて。誰かから指定された通過儀礼ではなくて、自分のなかの到達点があればよいのですが。
生き方の違う方のご意見はとても参考になります。
では。本年もよろしくお願いいたします。