今年の終戦記念日あたりに、NHKで、太平洋戦争時の日本兵に関するフィルム映像をCGでフルカラー復元したものが放映されておりました。発砲される銃声、機体を捻る零戦機の音がなんともあざやかで、ひときわおぞましかったのは、やはりくっきりとした血の色あいでした。戦争ドキュメンタリー番組ではモノクロだったものが、彩色されてしまうと、それが現実へと結びついた過去の一端であったことを痛切に実感させられた次第です。
戦争を語る映画特集の第四回めは、日本に関する映画を取りあげます。
「ラストサムライ」
渡辺謙、トム・クルーズ主演の話題作。
明治時代、急速に近代化する日本。古き佳き武士道精神を貫く男たちと機運を共にした外国人将校の戦い。黒澤明の「影武者」や「七人の侍」を嚆矢として、日本のサムライものは海外受けがよいせいせいか、さかんにつくられています。
しかし、はたして己の信条を守るためだけに人を殺すことが許されてよいのでしょうか。
キリスト教の十字軍遠征や、中世日本における仏教徒の武装化など、命を慈しみ救う教えを説くはずの宗教が、人を殺戮に向かわせた例は、枚挙に暇がありません。
しかし、現代は事情が違う。戦いに大義名分があったとしても、人を傷つけたものは、罰を受けねばなりません。
「太陽の帝国」
日中戦争をあつかったS. スピルバーグ監督作品。
日本の零戦に憧れる英国人少年が、親とはぐれてしまいます。保護してくれた米国人とともに、上海に侵攻した日本軍の捕虜施設に収容されて、憧れていた日本の軍人と接することになるのですが…。戦争の緊迫感は伝わりませんが、軍国教育に飼いならされた実際の日本人少年少女にとっては、戦争というのはこういう夢想に満ちたものではなかったと、反面的に考えることもできそうですね。
「火垂るの墓」
戦争アニメーション映画といえば、「はだしのゲン」と並んで、これではないでしょうか。
戦争で焼け出されて行き場をうしなった兄妹。兄が生き残るためにとった行動は、けっして許されるものではありません。生活が困窮し、弱者をかえりみなくなった大人たちに見捨てられたことを考えれば、本人だけの責任に帰すこともできない。戦争こそ起きてはいませんが、戦争時と同じように親が貧しく満足な食事も与えられない子どもたちがおおぜいいる現況を考えあわせますと、けっして作りごとと軽んじることもできません。
「硫黄島からの手紙」
クリンスト・イーストウッド監督作品。
1944年夏から翌45年2月までの硫黄島での日米の激戦を描いたもの。外国人らしい日本人=サムライという固定観念が押し出されすぎているのではないか、そしてまた戦勝国である米国に都合良く描かれているのではないかという気がしました。外国人には、日本人は潔く、温和で、責任感があり、いざというといきは死をもって償う覚悟があるという美徳で、敗北者を称えようとしているのかもしれません。しかしながら、軍人はともかく、軍人に強制されて、「敵国に辱めを受けるよりは死を選べ」と自爆弾を渡されたり、崖っぷちに追いつめられた民間人がいくらいたことでしょう。
この映画と表裏一体の関係をなすのが、米軍側からの硫黄島上陸作戦を描いた「父親たちの星条旗」です。これも米軍兵の退役後の心の傷を描いています。戦争は戦場から生き残った者にも、手痛い傷を負わせるものなのです。
「バルトの楽園」
第一次大戦末期、捕虜収容所のドイツ兵たちと、日本人との人道的な交流を描くヒューマンドラマ。
ベートベン作曲交響曲第九番「歓喜の歌」が日本に伝えられたエピソードを軸にしています。収容所に暮らすドイツ人たちは音楽に親しむだけでなく、印刷物を出版したり、パンを製造したりと自由な時間を与えられていました。その技術はやがて、日本の産業を支える力となっていくのです。戦勝国・敗戦国の別なく、人間が協同でものを生むことのすばらしさを訴えています。いわば戦争が生んだ善の側面でありますが、きわめて稀な例ともいえますね。
「夕凪の街 桜の国」
日本人が今後一切、末代まで忘れてはならない戦争の苦々しい記憶のうち、最大のもの。それが原爆です。
原爆は広島と長崎の街を一瞬にして焼き払い、多くの人命を奪いました。しかし、その後遺症に苦しむ人がいくらもいます。その痛みが、子の世代、孫の世代にも引き継がれていくのです。これほど不条理なことはありません。核廃絶をプラハで声高く唱えてノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のお膝元ですら、部分的な核実験を許していたのです。
ちなみに現在、アメリカの核兵器施設の労働者にも被爆者がおおぜいいますが、米国政府は救済をしておりません。米国はあくまで、日本の原爆は戦争責任と抱き合わせと考えており、他国が核兵器を手放さない以上核の抑止力を保持する他ないからです。唯一の被爆国である日本は、核兵器の恐ろしさを伝えていく義務があるでしょう。
最後に戦争を考える上で、戦争から遠いところにある一般人であっても、ぜひとも見ておいて欲しい一作で締めくくるとします。
「ホテル・ルワンダ」
1994年、アフリカの二つの民族間で生じた紛争による大量虐殺を描いています。
海外資本の高級ホテルの支配人が、避難民をかくまい、家族を命がけで守ろうとします。いわばアフリカ版シンドラーのリストとでもいうべき感動秘話ですが、本作は単にペシミステックに救済者を描こうとしたものではないこと。
ここでは虐待の被害者たちを見過ごしてきた、欧米のジャーナリストや国連平和維持軍の欺瞞をも浮き彫りにしています。そのうえで、被害者が自分を救うための覚悟を促しているのです。
戦争をなくすにはどうしたらよいのか。
相手より強い武器を持ち、強い経済をもつこと。かつて日本をはじめとした殖産興業につとめた欧米列強国の考えは、この思想にことごとく傾いていました。第二次大戦後、武力を放棄した日本は、経済成長を糧にして世界に影響力を残そうと務めました。現在、日本経済は、中国やインドという大国をはじめとしたアジアの新興国に追いつかれ、追い越されています。悲観的に考えますと、いつ軍事力を高めた国から攻め入られてもおかしくない状況です。
それを防ぐにはどうしたらよいか。
一国が被害をこうむったら、それを世界中が非難し、恥ずかしいと思う行為だと思わせるように声を高くすることです。敵愾心を呷るように過剰なものはいけませんが、事なかれ主義で、こちらが我慢のしどおしでもいけない。理不尽なことがあっても、すぐに詰め腹を切るような後ろ向きなサムライ気質は、日本人には必要ありません。日本人に必要なのは、維新後の政府が列強に負けないように主張をしたあの交渉術、他国に負けないように産業を興してきた意欲なのです。
武器を取り、ある領土を侵略することが戦争なのではありません。
肉体的にではなく、精神的にも苦痛を与え、その人の生命を脅かすのみならず、財産・言論の自由を奪い、基本的な人権を損なうこと。つまり戦争のはじまりには、いじめがあり、差別心があるのです。恥ずかしながら、そのような差別心は私自身にもあります。小さな差別の芽が、権力者の号令のもとに膨らまされ、暴力を伴って爆発したものが戦争ではないでしょうか。
そもそも動物は、縄張りか、捕食かの最低限の事由でしか争いを好みません。いくら生き残るため、天敵を徹底的に駆逐することもないのです。
感情の崩れによって、人を殺そうとたくらむのは人間だけです。しかし、逆に考えてみれば。感情によって呼び覚まされた悪意は、また感情に訴えることによって収めることもできるのではないでしょうか。
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しかし、はたして己の信条を守るためだけに人を殺すことが許されてよいのでしょうか。
キリスト教の十字軍遠征や、中世日本における仏教徒の武装化など、命を慈しみ救う教えを説くはずの宗教が、人を殺戮に向かわせた例は、枚挙に暇がありません。
しかし、現代は事情が違う。戦いに大義名分があったとしても、人を傷つけたものは、罰を受けねばなりません。
「太陽の帝国」
日中戦争をあつかったS. スピルバーグ監督作品。
日本の零戦に憧れる英国人少年が、親とはぐれてしまいます。保護してくれた米国人とともに、上海に侵攻した日本軍の捕虜施設に収容されて、憧れていた日本の軍人と接することになるのですが…。戦争の緊迫感は伝わりませんが、軍国教育に飼いならされた実際の日本人少年少女にとっては、戦争というのはこういう夢想に満ちたものではなかったと、反面的に考えることもできそうですね。
「火垂るの墓」
戦争アニメーション映画といえば、「はだしのゲン」と並んで、これではないでしょうか。
戦争で焼け出されて行き場をうしなった兄妹。兄が生き残るためにとった行動は、けっして許されるものではありません。生活が困窮し、弱者をかえりみなくなった大人たちに見捨てられたことを考えれば、本人だけの責任に帰すこともできない。戦争こそ起きてはいませんが、戦争時と同じように親が貧しく満足な食事も与えられない子どもたちがおおぜいいる現況を考えあわせますと、けっして作りごとと軽んじることもできません。
「硫黄島からの手紙」
クリンスト・イーストウッド監督作品。
1944年夏から翌45年2月までの硫黄島での日米の激戦を描いたもの。外国人らしい日本人=サムライという固定観念が押し出されすぎているのではないか、そしてまた戦勝国である米国に都合良く描かれているのではないかという気がしました。外国人には、日本人は潔く、温和で、責任感があり、いざというといきは死をもって償う覚悟があるという美徳で、敗北者を称えようとしているのかもしれません。しかしながら、軍人はともかく、軍人に強制されて、「敵国に辱めを受けるよりは死を選べ」と自爆弾を渡されたり、崖っぷちに追いつめられた民間人がいくらいたことでしょう。
この映画と表裏一体の関係をなすのが、米軍側からの硫黄島上陸作戦を描いた「父親たちの星条旗」です。これも米軍兵の退役後の心の傷を描いています。戦争は戦場から生き残った者にも、手痛い傷を負わせるものなのです。
「バルトの楽園」
第一次大戦末期、捕虜収容所のドイツ兵たちと、日本人との人道的な交流を描くヒューマンドラマ。
ベートベン作曲交響曲第九番「歓喜の歌」が日本に伝えられたエピソードを軸にしています。収容所に暮らすドイツ人たちは音楽に親しむだけでなく、印刷物を出版したり、パンを製造したりと自由な時間を与えられていました。その技術はやがて、日本の産業を支える力となっていくのです。戦勝国・敗戦国の別なく、人間が協同でものを生むことのすばらしさを訴えています。いわば戦争が生んだ善の側面でありますが、きわめて稀な例ともいえますね。
「夕凪の街 桜の国」
日本人が今後一切、末代まで忘れてはならない戦争の苦々しい記憶のうち、最大のもの。それが原爆です。
原爆は広島と長崎の街を一瞬にして焼き払い、多くの人命を奪いました。しかし、その後遺症に苦しむ人がいくらもいます。その痛みが、子の世代、孫の世代にも引き継がれていくのです。これほど不条理なことはありません。核廃絶をプラハで声高く唱えてノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のお膝元ですら、部分的な核実験を許していたのです。
ちなみに現在、アメリカの核兵器施設の労働者にも被爆者がおおぜいいますが、米国政府は救済をしておりません。米国はあくまで、日本の原爆は戦争責任と抱き合わせと考えており、他国が核兵器を手放さない以上核の抑止力を保持する他ないからです。唯一の被爆国である日本は、核兵器の恐ろしさを伝えていく義務があるでしょう。
最後に戦争を考える上で、戦争から遠いところにある一般人であっても、ぜひとも見ておいて欲しい一作で締めくくるとします。
「ホテル・ルワンダ」
1994年、アフリカの二つの民族間で生じた紛争による大量虐殺を描いています。
海外資本の高級ホテルの支配人が、避難民をかくまい、家族を命がけで守ろうとします。いわばアフリカ版シンドラーのリストとでもいうべき感動秘話ですが、本作は単にペシミステックに救済者を描こうとしたものではないこと。
ここでは虐待の被害者たちを見過ごしてきた、欧米のジャーナリストや国連平和維持軍の欺瞞をも浮き彫りにしています。そのうえで、被害者が自分を救うための覚悟を促しているのです。
戦争をなくすにはどうしたらよいのか。
相手より強い武器を持ち、強い経済をもつこと。かつて日本をはじめとした殖産興業につとめた欧米列強国の考えは、この思想にことごとく傾いていました。第二次大戦後、武力を放棄した日本は、経済成長を糧にして世界に影響力を残そうと務めました。現在、日本経済は、中国やインドという大国をはじめとしたアジアの新興国に追いつかれ、追い越されています。悲観的に考えますと、いつ軍事力を高めた国から攻め入られてもおかしくない状況です。
それを防ぐにはどうしたらよいか。
一国が被害をこうむったら、それを世界中が非難し、恥ずかしいと思う行為だと思わせるように声を高くすることです。敵愾心を呷るように過剰なものはいけませんが、事なかれ主義で、こちらが我慢のしどおしでもいけない。理不尽なことがあっても、すぐに詰め腹を切るような後ろ向きなサムライ気質は、日本人には必要ありません。日本人に必要なのは、維新後の政府が列強に負けないように主張をしたあの交渉術、他国に負けないように産業を興してきた意欲なのです。
武器を取り、ある領土を侵略することが戦争なのではありません。
肉体的にではなく、精神的にも苦痛を与え、その人の生命を脅かすのみならず、財産・言論の自由を奪い、基本的な人権を損なうこと。つまり戦争のはじまりには、いじめがあり、差別心があるのです。恥ずかしながら、そのような差別心は私自身にもあります。小さな差別の芽が、権力者の号令のもとに膨らまされ、暴力を伴って爆発したものが戦争ではないでしょうか。
そもそも動物は、縄張りか、捕食かの最低限の事由でしか争いを好みません。いくら生き残るため、天敵を徹底的に駆逐することもないのです。
感情の崩れによって、人を殺そうとたくらむのは人間だけです。しかし、逆に考えてみれば。感情によって呼び覚まされた悪意は、また感情に訴えることによって収めることもできるのではないでしょうか。
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