陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ゆく平成、くる令和

2019-04-30 | 自然・暮らし・天候・行事
毎年の大晦日だとか、誕生日だとか、あるいは卒業式や退職日だとか、何かが終わり、つぎのなにかがはじまってしまうことが分かりきっているのに、とりたてて記念を飾り立ててしまうことなく過ごしてしまうことはよくあります。

平成が今日でおしまいということは、すでに一年も前から予約され、法律にも示され、メディアでも報じられ、誰の口にものぼったはずのことでありました。
一箇月ほど前には、新しい元号が発表され、その二字にこめられた意義に感じ入るものが多く、このたびの天皇陛下退位および即位の儀にあっても、昭和の終幕とはちがい、悲哀と自粛のムードのなかで行われないということを喜ぶべきはずでした。しかし、なぜか、私のなかにはもやもやした感情がくすぶっています。

平成三十一年間を総括する企画などもあり、数かずの識者が平成という時代をひとくくりにして分析しようとしているのです。
戦争こそはなかったけれど、海外の戦地やテロで日本人が亡くなったことはありました。阪神大震災や東日本大震災そのほか各地で地震や風水害が多発し、恒久的なエネルギーとして絶大な信頼がおかれていたはずの原発が凶器にかわり、その代替エネルギーとして期待された太陽光発電も斜陽に。大手銀行がつぶれ、まさかと思う大企業が海外に買収され、終身雇用が崩れて、非正規雇用が増大しています。少子高齢化が進み、働き手が少なくなっているのに、一人当たりの仕事量が増え、社会保障の負担が大きいので手取りは少ない。親子夫婦のつながりは細くなり、都会へとひとが流れるので地縁が薄れ、出世した子は親を見捨て、同僚を出し抜き、よく知らない他人を疑わなくては生きられない。助け合うはずの家族が、子育てや介護や、そのほかの問題が個々人に重くのしかかってきます。

情報源が豊かになり、教育への門戸もひらかれているはずなのに、わたしたちはなぜだか古い世代よりも知性があって、社会の矛盾をのりこえていけるような力があるとは信じきることができません。漫画やアニメ、各種レジャーのような娯楽の幅が増え、スポーツや文化芸能での若い世代の活躍もあり、明るいニュースはあるにはあるけれど、それは一瞬の打ち上げ花火のようなもので、つねに不安に足をとらわれているような感じがするのです。未来を力強く生きるための学校という場所ですら、殺人犯が潜み、犯罪を生み育ててしまう温床になってしまうことを、平成時代におきた事件が証明してしまいました。勉学に励めば報われるという苦学生の信念ですら、大学入試の不正や高学歴者の自死や、オウム真理教のようなカルト信仰によって、夢打ち砕かれたのです。

私は昭和の生まれの中年ですが、人生の四分の三ほどは平成に属しています。
受験も進学も就職も失職も、人生上のさまざまな節目は平成にありました。平成という時代の終焉に間に合わせたかのように、ここ数年、すさまじく各界の著名人が鬼籍にはいりましたが、私の身内でも、知り合いでも、まさかという人物が亡くなっていきました。そのために、私自身の目指したい方向も変わってしまいました。

このたびの今上天皇陛下の生前譲位について、ひしひしと思うことは。
存命で子の行く末を眺められること、多忙きまわるご公務から離れ、静かな余生が待っていること、すくなくもあと三代までは跡目が安泰であろうこと、への羨望なのかもしれません。このようなことを書けば不敬罪ととらえられそうですが、旧憲法下では「現人神」とされた亡き昭和天皇と違い、今上天皇ご夫妻は被災地訪問などを通じて「国民の悲しみに寄り添われた」お方でした。その人が近くにおられるだけで光がさすような聖人のような扱いでありました。

はたして、令和以降、わたしたち国民はこのような誰かに対する尊厳の考えを、皇室はもちろんのこと、身近なひとについても、自分と異なるひとについても抱くことができるのでしょうか。すこしでも他人の苦みや傷口を探し出して、それよりは自分の方がいくぶんか幸せなのだと言い聞かせて自分をごまかしながら、年老いていく、しがない市民のわたしたちが。令和の時代に生まれた子どもに、がんばった分だけ努力が報われるんだよ、と言ってあげたいけれど、背中を押してあげたいけれど、そのような余裕をもはや大人たちが持てなくなってしまったのです。

最近、東京大学の入学式である女性学の権威である学者が、若者へ自立をうながす実に感慨深いスピーチを行ったことが話題になりましたね。
あなたが受けた教育の恩は、これからの社会に還元しなさい、という言葉は私が学生の頃から使いまわされた言葉です。その言葉は運よく荒波を乗り越えて社会階層の上層部に居座ることのできた強者の立場からすれば、気分のいい激励や訓示なのかもしれませんが、そうでない者からすれば、これから逃げ切り世代よりも莫大な負担を背負わされる若者からすれば、残酷な響きにしか聞こえないものです。車を暴走させて母子をひき殺した犯人が、もと官僚のお偉いさんだからと逮捕もしないこの国に対して、労働環境を改善させずに過労死させておいて、次は安価な労働力として外国人頼みのこの状況に対して、国民の怒りが湧きあがっているのに、行く末になにを期待すべきなのかと。

私は平成という時代がほんとうに大嫌いでした。
この時代に私が得たのは、権威に対する絶え間のない疑念であり、権力者への飽くことなき怒りでした。

それはこの三十年ほどのあいだに、知性あるはずの学者や教師や、美を司る文化の表現者たち、政治家や経営者たち、行政機関などの欺瞞、立法の形骸化などをいやというほど身に染みて感じてきたからでした。そして、それは大まかな建前であって、本音をいえば個人としてのあまりに失うものが多かったからに他ならず、とうとう元号が変わるまでに、このぺシミスト癖を情けないことに矯正することができなかったのが、自分の心残りであったのです。新しい時代になったからといいまして、こびりついた怒りはブラックホールのようにどこか異次元にもっていくことができそうにもないですね。


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