世に芸術家、作家、ミュージシャンなどと呼ばれる者のなかには、犯罪者がいなかったわけではありません。バロック期の天才画家カラヴァッジオは人殺しだと伝えられていますし、日本でも芥川賞作家で前科者がいたりもしました。常軌を逸したものを生み出す力は、狂気にも近いものですが、卓越した表現者だからといいまして、法を犯してもお目こぼし許されるわけではありません。海外で評価が高い映画監督で、お笑いタレントの大物芸能人も、その昔、軍団をひきつれて雑誌社で暴力事件を起こしたことがありますよね。
男性ロックバンドのメンバーで俳優でもあるピエール瀧容疑者のコカイン摂取による逮捕を受け、CD販売やネット上の音楽配信が中止になり、客演していたNHK大河ドラマまで役者替えで撮り直しを迫られる騒ぎに。声優をつとめた人気ディズニーアニメ映画「アナと雪の女王」の吹き替え降板はもちろん、現在のDVDさえも販売中止に追い込まれています。お正月に、続編つきでテレビ放映されていましたよね。あの雪だるまくんの演技おもしろかったのに残念です。
麻薬騒動といいましたら、芸能人の検挙は尽きないのですが。
記憶に新しいところでは、酒井法子さんですよね。売れ筋CDがのきなみ発売中止になりました。清原和博選手も、野球の殿堂入りを外されましたよね。
今回の騒動に対し、たったひとりの逮捕のために出演作品をお蔵入りにするのはやり過ぎではないか、との声もあります。読売新聞の読者欄にも投書があり、識者の寄稿による特集も組まれていました。共演者にしてみたら、努力が水泡に帰すわけですからやるせないですよね。しかし、芸能人やスポーツ選手などメディアに顔出しの多い憧れの有名人だからこそ、なおさら社会への影響が大きいわけで。
「作品に罪がない」とは言いますが、それもそのはず。
屁理屈申せば、作品そのものには人格がありませんから、法的に違法性を問えるわけもなし。しかし、罪がなくとも、咎めはないとは言いきれません。違法な薬物投与によって得られた表現力を称えていた側は興ざめしてしまうからです。このたびの容疑者氏はすでにコカインを20年以上にわたり常用していたので、ほぼ彼の初期からの音楽活動からはじまって、薬漬けの表現といわれても仕方がないのかもしれません。
米国では映画監督が女優にセクハラして追放されたけれど、その監督作映画は公開されたとか。麻薬を不快に思う人が買わなければいいだけだとか。そんな意見もあります。その作品に音楽を提供したり、一緒に仕事をしたりした仲間からすれば、お見逃ししてほしい気持ちもあるでしょう。
しかし、麻薬はそれそのものの摂取のみならず、それを入手したツテが問題視されるものです。
暴力団、マフィアなどの反社会的勢力とのつながりを撲滅しようという気運高まっているこのご時勢、それを匂わすつきあいがあると分かった時点で、じゅうぶんにクロではないでしょうか。何も芸能人に限ったことではなく、一般社会でも、この手合いの方と契約したりしたら命とりです。信用を失います。ドラマを放映して協賛で広告を出している企業イメージが悪くなるので、放映などを控えるのもおかしくはない話です。
その作品、ご本人のファンからしたらとても残念なことですが。
そもそも、芸能界やスポーツ界などの興業の世界は、少々厳しいなと思うぐらいに裏社会との関係を断つべきです。お金になるからといいまして、いたいけな少年少女に水商売まがいのアイドル稼業を強いてしまうのもどうかと思いますし。パチンコ業界のCMをバンバン流されるのも困りますし。
ダウンタウンの松本人志さんもおっしゃっていましたが、役者や歌手が違法薬を服用したうえでの表現力は、競技選手のドーピングと同様と非難されてもしかたがないのです。
真面目に表現を追及して努力している者が報われないわけですし。演技だから顔に険がある表情でも見られるのに、これが薬物常習で素の表情だったら怖いですし。麻薬を投与しても許される世界があると、子どもたちに教えたくはないですよね。共演者にはとばっちりだが、この機会に芸能界から薬物汚染や反社会的勢力を一掃していただきたいものです。
それにしても、人気者商売のひとは、なぜ麻薬に関わらず、酒だの煙草だの、あるいは賭け事にさえ、溺れてしまうのでしょうか。
水ものに近い他人に自分の評価を委ねてしまうことに対する嫌悪感がそうさせるのでしょうか。もちろん、誰しも大なり小なりの、過ちや怠惰はあるもので何かで紛らわせたくもあるのですが。成果があったとしても、自分の望んだ方向のものではなく、自己充足が得られないからそうなるのかもしれません。自分が何に昂揚感を抱くかを冷静に吟味して、それがいいのか悪いのか、考えてみることは大事なのかもしれませんね。
【画像出典】
『エマオの晩餐』(1601年作) ロンドン・ナショナルギャラリー
あやまって人を殺めたカラヴァッジオの名声は、その醜聞によって死後まもなく廃れ、20世紀に入って美術史家ロベルト・ロンギらによってふたたび見いだされた。その間、実に300年。作品が作り手の人格から離れるには長い時間を要するのかもしれない。