もう終わったのかと思ったら、Yoshizumi's Barというコーナーで、またジュリーが取り上げられてました。吉住公男さんという1956年生まれの自称音楽ファンというかたと鈴木雅之さんがお話になってます。
ジュリー25周年を振り返って、ということで、おふたりの後方には、ジュリーの年表が。
まずは、ファニーズのころからタイガースとしてデビューするまでの、裕也さんとのいきさつなどを紹介。
デビュー曲
僕のマリー
について。
鈴木さん「B面がよかったの、これ。買いました」
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このB面のこと、「落葉のなんとか」って鈴木さんはおっしゃってるんだけど、僕のマリーのB面は違うよね
シーサイドバウンド
について。
吉住さん「これで一気に人気に火がつきましたね。リズム的には阿波おどりというか。ジュリーがティンバレスかたかたかたとたたきながら。夏向けの軽快なリズム。爆発的に売れまして、ここからは出すシングルすべて大ヒットで、GSグループナンバーワンになるわけですね」
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阿波おどりって~
スマイル・フォー・ミー
「これ、全曲英語の詞で、ビージーズが曲を作って、タイガースにプレゼントしたということで、雑誌の企画がもとになってるようですが、解説に書いてあるんですけどね、1968年の2月19日と6月22日の2回、タイガースとビージーズは国際電話で話しあいました、それ以来このグループは大の仲良しになりました、って。電話で2回話しただけでね、よほどあい通ずるものがあったんでしょうかね~、曲自体はいかにもビージーズのギブ兄弟が書きそうなメロディアスな曲で、しかも英語で歌ってるという画期的なレコードですね」
ジュリーがソロになってからの話。
時の過ぎゆくままに
吉住さん「このころが歌謡曲のジャンルでは、ひとつのピークをむかえた感じで、その後、だんだん、衣装に凝ったものになって、ロック色を強めていくわけですね。ぼく自身、沢田さんは歌謡曲のジャンルのなかからいい意味でも悪い意味でも外に出てない人だと思うんですね、フィールドは歌謡曲だと思うんですよ。ただ、その歌謡曲のフィールドのなかで、どれだけロックっぽいことができるか、歌謡曲の枠を広げる意味で、どれだけおもしろいことができるかというのは、25年間ずっと僕らを飽きさせずに楽しませてくれた人だな、と思うわけです。ぼく自身は、沢田さんは歌謡ロックの王者と名付けたいと思いますけど。そういう路線がピークをむかえるのが、80年代に入ってからなんですね。80年を境目に、TOKIO、落下傘をしょってた、この辺からますますロック色が強まってきましたね。とくに81年の、ストリッパーに僕は衝撃を受けたわけです。このあたり、バックを務めてたエキゾティックス、この辺からいちばんロック色が強かったなと思うんですが。
おまえにチェックイン、大沢誉志幸さんが、ソロデビューする前、作家活動をしてたときに書いた曲で、この、チュルルルってコーラスの部分は、沢田さんご本人と、曲を書いた大沢誉志幸、アレンジャーの伊藤銀二、たまたまスタジオに遊びに来てた佐野元春の4人でやったと聞きました。よくまぁ、そんなくせのある4人がコーラスできたなぁという気がするんですけど。ここに、晴れのちブルーボーイ、これが歌謡ロック、リズム歌謡としては究極の作品じゃないかと思うわけです。これ、詞は銀色夏生さんですね、これはかっこいいですね。これなんか、スタジオのすみでレコード見ながらにやにや笑ってる大沢の顔が見えるような気がするんですよ」
再び、鈴木さんと森川さん登場
鈴木さん「沢田研二さんですけど、ボーカリストとしてはもちろんだけど、演技もいろんなことこなすじゃない」
森川さん「ますますエンターティナーぶりを発揮なさってるアーティストだと思います」
シングルやコンサートのお知らせ
このときは、パノラマのツアーで、大阪フェス、2日間もやってるんだ~。
バックに、
二人はランデブー