これが都会の学校では自然は殆ど無く、子供達は不自然に密集させられて男女間にバリアーが出来、なかなか自然な恋が生まれないのが現状です。
不自然な都会では、性は商品化されたりコマーシャル(テレビ)に使われたりで歪んでおり、こうした不自然さが日本人から自然な初恋のチャンスを奪っている事は否めないかと思います。
私も都会の学校(新宿区)に通ってたので小中と初恋の機会はなく、周りでも本当の恋愛みたいな話は聞きませんでした。
高校は男子校に近い航空高専に通い、宇宙やら生命やらの科学に熱中してますます初恋からは遠ざかり、純粋な子供の恋愛は経験する事が出来ませんでした。
二十歳を越えてからの恋愛は、色んな社会的要素が絡んで来て純粋には成り難い気がし、やはり子供の頃の初恋は特別に美しいモノで描く価値が有るかと思います。
よく恋愛の美しさは、二人だけの世界が出来てそれが外の世界よりも大きくなり、社会的なしがらみから自由になれる事だと言われます。
これは英語ではフォーリン アウトと呼ばれ、日本語の駆け落ちに近いニュアンスです。
希聖(シーシェン)と小清(シャオチン)はそんなフォーリン アウトを経験し、2人は山の隠れ家で何日も一緒に過ごします。
小清の方が3才上とし、希聖は幼い頃彼女に面倒を見てもらって互いに愛着が湧いたとします。
希聖は逞しい少年となり、小清の良き山ガイドとなって彼女を冒険の旅へと引っ張ります。
町までは何日もかかる上にお金もないので滅多に行かず、反対にもっと奥地の高い山を目指して2人は何度も冒険旅行をします。
珍しい山羊を捕まえてミルクを飲んだり、魚や果物や山菜を取ったりして2人は遠くまで旅をします。
こうしたワイルドな旅は確実に2人の絆を強め、どんな困難にも2人ならば打ち勝てるような気持ちを持たせます。
それは希聖1人では持てなかった気持ちで、それまで暗く寒かった山の夜は、光明に包まれた温かい夜に変わりました。
小清は心優しい少女で、山里の厳しい風潮には馴染めませんでしたが、希聖はそんな小清を愛します。
小清は希聖に優しさの価値を教え、それは後に彼が修羅の道に進んで行くなかで一旦は忘れ去られますが、この臨終間際の追体験によって蘇ります。
小清との幸せなフォーリン アウトの思い出も七日間続き、「チベット死者の書」には十四日目に光明は一転して闇に転ずると書かれています。
次回はそんな光明から闇への屈折を描きたいと思います。