「#記憶」も意外と少ないかと思いますが、ブログはみんな記憶を使って書いているので、全部につけて良い気もします。
さて獄中編は前回で終わって、10日ぶりにシャバに帰って来た感慨を語らせてもらいます。
釈放は霞が関の検察庁で行われ、その日は取り調べの人達と一緒に8時から手錠されて閉じ込められます。 もう取調べは無いのでタダひたすら待たされ、罰金額(10万円だった)が決まって払い終えたのは午後4時でした。 この狭い部屋に10人押し込まれて長時間待たされる経験は4度目で、タダ一日を座って声も出さずに過ごすのにもだいぶ慣れ、スペースは二人分貰えたので座禅が出来て快適に功夫(ゴンフー)を積めました。
釈放では母が身請けに来たので、あまり一人で感慨に浸るコトは出来ませんでしたが、自由に歩き回れるコトに幸福感を懐きました。
家に帰ってからも功夫(チベット体操)を続けられ、本に向かう姿勢も勾留して頂けたお陰で大いに高まって、シャバに出て最初の本は善いのに巡り会えました。
それは母が行ってた日本女子大の「推奨本100選」のトリを飾っていたモンテーニュ「随想録」で、この作者(16世紀のフランス人哲学者)は私が通っている語学教室(アジア青年会)のフランス語教師も推奨していたので、都内の図書館をハシゴして見つけ出しました。
因みに私は東洋大学で哲学を一年カジッたコトがあり、その時アラン(フランス哲学者「幸福論」が有名)に傾倒して、フランス哲学は「明るく実践的」と言ったイメージが残っていました。
私は音楽は結構古い年代のアーティストを深掘りしていますが、文学では19世紀までの作家しかよく知らず、特にフランス文学は良く知らないので挑戦してみました。 まだ半分も読んでませんが、この本は30年程のスパンで書かれた「随想録」で、時代によって意見が違って来る珍しい書です。
モンテーニュはそうして自己を相対化させ、物語を語る様に自由に自分を描き出し出しております。 これほど「自己批判の精神」に溢れた書物は稀で、フランス人独特のユーモアがそれを「明るく実践的」なモノにしています。 今回は50篇ほど有る「随筆」の中から「記憶について」をフィーチャー致します。
ここで若き日のモンテーニュは「記憶こそが全ての戦争の元凶だ」とし、記憶を夢の彼方に追いやる道を追求します。
今ロシアとウクライナが戦争してるのも「記憶」のせいで、そんな悪い記憶は「夢」で包んでアートに変えなければ成らないでしょう。
日本と中国の間でも「悪い記憶」は未だに蟠っており、その暗雲を晴らす小説(今は「Sayの物語」)をこれからも書いて行きます。
「記憶は忘れるコトこそが美徳」だとするモンテーニュの見解は、老人の繰り言に辟易とさせられる回数が増えるに従ってユライで行きすが、私も「記憶が争いを生む」という意見には賛同し、「ボケ老人こそが世界を平和にする!」とする「ヘルプマン!」のアイデアにも共感いたします。