電波に画像情報を載せられる様になったのは、実は音よりも早かったみたいです。 しかし実用化までには遥かに多くの技術革新が要求され、大戦後の50年代になって初めてテレビは商品化されました。
その後テレビは急速に文化の主役へと成長し、テレビ局は世界を支配する勢いすら見せました。(「007トゥモローネバーダイ」より)
今でもアメリカなどでは、「テレビが大統領を決める」と言われており、それ程にテレビの影響力は凄いモノです。
どんなに素晴らしい本を書いた候補者でも、テレビがその人の醜態を映し出したならもう落選は免れません。
テレビ局は資本の原理(金儲け)に支配されているので、「資本主義=民主主義」の世界では、テレビ局が圧倒的な力を持つのは当然の成り行きでした。
ここで、共産主義社会のテレビについても触れて置きますと、これは国営放送一本しか無く、完璧にプロパガンダ(政治宣伝)の道具と化しています。
その滑稽さでは北朝鮮のテレビが代表的で、ロシアや中国もそうした「洗脳の道具」としてテレビを用いており、それは北よりも遥かに洗練されているので侮れません。
しかし近年、テレビよりもインターネットがメディアの主流に成って来ており、これは受け身の動画ばかりに支配されて来た視聴者を、双方向で多様性のある文章メディアに引き戻す効果があって善いコトだと思います。
ネットについては次回に詳しく語るとして、「世界を小さくした箱」に話を戻します。
これは「小さな箱」に世界を入れてしまった実に驚異的なメディアですが、受け身一方の情報で世界を識った気にしてしまい、「世界を小さく」観る向きも助長してしまいました。
実際の世界は限り無く広く、動画が映し出せるモノなど限られていると、現代人は理解して来ているかと思います。
本当の人の心は、その全人生の経験を識らなければ伺い知れず、「小さな箱」で観られるリアルは表面的なモノに過ぎません。
それでも、リアルタイムの現状が衛星を通じて即座に、世界中のお茶の間に映し出しされるコトは素晴らしく、テレビは自由世界を1つに経げたと言えます。
テレビは「自由の象徴」で、テレビ局(映画産業を含む)が社会と政治を動かす「アメリカ民主主義」も、プロパガンダ1色のテレビと比べれば遥かに健全と言えるでしょう。