因みにこのブログは物語のアイデアを述べるモノで、後からいくらでも付け足しや変更は可能で、読者の方々からのアイデアも常に募集しております。
さて、1969年にサラと秀祥がヒマラヤの峠で孫文徳と永別するシーンまで、前々作「Shu-Shan」で描きましたが、そこまでの流れをザッと振り返って置きます。
「裸足の医者」文徳とサラが結婚し、共に「共生微生物学」の研究で世界的な名声を得る所までは既に振り返りましたが、その後に中共(党)によるチベット侵攻が始まり、孫一家の住む東チベットの優樹(ユーシュー)県は一番の激戦区となりました。
それはチベットの前に侵攻され滅ぼされていた、モンゴルの騎兵隊が優樹に落ち延びていた為で、彼等はチベット軍と協力して中国西部に多く作られた労働改造所(資本家や知識人が入れられた)を解放して回り、勢力を拡大して「優樹国」を打ち立てます。
この「国」はチベットが降伏してからも5年間独立を保ち、そこに逃げ込んだ多様なバックグラウンドの人達を幸せに包み込みます。
そこでサラは多数派のチベット人を代表し、モンゴルの王者-愛新覚羅傑仁、漢民族の法王-行善、農聖-サイオン、魔王-曹希聖らと共に、理想国家を築き上げます。
そこでサラが受け持ったのは主に教育行政で、ここでは「教育の女神サラスワティー」の転生者として相応しい、理想的な学校を描く必要があります。
それはもっと前の物語「Syn」でも、同じく転生者であるセラが原爆投下前の長崎(浦上)で行った教育に通じ、それを如何に美しく描くかが物語の一番の「魅せ処」です。
そのヒントとして、インドでサラと同時代に生きたサイババの教育方針が参考になります。
これは欧米の作家等からシュタイナー教育よりも素晴らしいと絶賛されており、国連の教育行政の諮問機関にまで指名されています。
その中身を簡潔に述べると、競争主義ではなく協調主義で、押し付けではなく自発性を促し、人工的な物事よりも自然の理解に重きを置き、非生産的な学問よりも実学を重視し、戦いを美化せず本物の芸術を伝え、平和の伝統こそが人類の真の歴史だと子供達に教えます。
しかし残念ながら、こうした理想主義の教育は時代を先取りし過ぎており、サラの時代では一般社会から排斥されてしまいます。
それでも彼女は、未来を見据えて精一杯に子供達を導き、秀祥もその遺志を引き継ぎます。
インドに亡命したばかりのチベット人社会はとても貧しく、食べる物にも事欠く中でサラは子供達に捧げ尽くし、そのため長生きは出来ませんでしたが、彼女の生涯は「火と生きる」トゥルクの姿を、周りの全ての人々の心に強く刻み込みました。