真の動物福祉牧場を目指して

110. 手と創造

 手が創造したモノは、私たちの住む世界に溢れています。
 むしろ人の手が入っていないモノの方が珍しく、私たちは「鯨の腹の中で」発酵分解を続ける共生微生物群と言えるでしょう。

 いきなりマニアックな形容をしてしまいましたが、この世界が人類の産物であるコトは否定できず、それは全て「手」によって創造されました。

 いや、現実には人類が地上で占めているエリアなどたかが知れており、まったく手付かずの自然の方が大きいのも事実です。
 しかしそれでも、我々の身の周りのモノは全て人の手によって創られており、その偉業には驚きを禁じ得ません。

 ここでもう少しこのワンダー(驚き)を深掘りしますと、「手」による創造は神による創造を超えたとするイデオロギー(教義)すらあります。
 それが共産主義なのですが、人には自然を完璧に理解して支配する力があるとする過信は、キリスト教では「原罪」として否定されています。

 仏教では否定まではしませんが、どちらの極端にも偏らない中道を勧めています。
 それは農業で例えると、化学肥料と農薬で人類は作物の創造を極めたと思い込まず、かと言って自然そのままの創造こそが理想的だと盲信しない姿勢になります。

 まずは自然の創造をキチンと理解した上で、それに手を加えるコトで「真の創造」は生まれます。
 これは言葉にすると簡単そうですが、まだまだ人類は自然の創造をほとんど理解しておりません。
 
 この「無知の智」は古代ギリシャから現代にまで引き継がれており、真の智者と言える学者は皆それを強く意識しています。
 余談ですが、そうした「智」を持たない学者が、自然と手の創造を軽んじて無責任な批判をするコトがしばしばありますが、そうした批判はあくまで試金石として、話を膨らませる種にすべきでしょう。

 「原罪」について補足しますと、手が創造したミラクルは特に若者の心を捉えており、かつては信仰心の強かった発展途上国の若者達まで、神(自然)の創造を軽んじる事態になって来ております。

 これは、そうした過信が結局は虚しいモノだったと考える先進国の人間にとって、かつての自分達の姿を見るような「あわれ」を覚えさせます。
 私はクリスチャンではありませんが、人の手の創造が神を超えているとは思わず、神を殺してしまった共産主義には賛同できません。

 ところで、ロシアもかつては共産主義革命を輸出するバリバリの「原罪国家」でしたが、ソ連が崩壊してからはロシア正教が復活して共産党は失墜しました。
 しかしソ連時代を懐かしむ人達は大勢おり、彼等はキリスト教の「殺すなかれ」なんて無視し続けております。

 未だにロシアでは神が地に葬られたままで、ロシア正教ではもう人々の心に訴えないかの様です。
 一度神を葬った国では、人の手で神を再創造する必要性があるのかも知れません。

 そうしたチャレンジは遥か未来を描いたSF小説に見られ、ル-グィンの「闇の左手」が有名です。
 そこでは他の文明惑星に乗り込んだ地球人が、その星で繰り広げられる宗教国家と原罪国家の争いを調停しようとします。
 それはかつて、地球でも飽くことを知らず繰り広げられた争いで、彼はその星に救いをもたらそうとチャレンジします。

 
 
 
 

 

 
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