わたしにとって詩は短いほど味わい深く、それは暗記して何度も味わえるからで、その意味で日本の俳句や短歌は最も優れた詩の形態だと思います。
「終わることない魂の祝祭」は字余りですが印象的な詩句で、それはパステルナークが晩年になって死期が近づいて、ようやくソ連邦の言論統制などは無視して自由に書く意志を固め、「ドクトル-ジバゴ」を書いている時の心境を詩ったモノです。
因みにこの作品はノーベル文学賞を受賞しますが、パステルナークはそれを受けたら国外追放にすると党に脅されて辞退します。 賞は彼の死後に授与されましたが、パステルナークの「終わることない魂の祝祭」は物語として後世の人々の魂にも「終わりなき祝祭」をもたらし続けています。
わたしもそんな「終わりなき祝祭」を描きたいと思っており、それにはまず自分が「それ」を実感する必要があるとも思います。
「それ」とはつまり世界のコトであり、自然界と言っても良いのですが、「それ」を社会と捉えるのは偏狭に思え、地球だけに限定するのも面白くないと思います。
「終わりなき祝祭」の世界を良く表現した詩句としては、わたし的には「南無妙法蓮華経」が1番かと思え、これは宮沢賢治もそう思っていたようです。
「妙なる法が蓮華のように経てゆく」世界に「南無(オーム)」するコトは、単に祈りの言葉として長時間連呼するだけでは実現せず、現実にそうした世界を自らの手で作り上げるモチベーションとすべきで、この点が神頼みのキリスト教と実際的な仏教の違いと言えます。
仏教では万物に神が宿っているとし、科学の世界でも自然界に存在する94種の元素すべてに神秘が宿っていると認識しています。
それらの元素の組み合わせは無限であり、そこから80種ほどが神秘的な縁起により組み合わさってヒトになっているコトが解って来ましたが、地球人はまだその意義を本当に理解しているとは言えません。
「終わりなき祝祭」の世界である惑星「萌」ではその理解が格段に進んでおり、そこに住む生物は動物と植物から微生物に至るまで、元素のレベルから理想化が図られて「完全なる健康」が実現します。
しかしそれでも、生物はいつか死を迎えて輪廻する定めにあるので、魂については元素とは別次元のモノと捉える必要があるでしょう。
今回は話がいったり来たりしましたので、「それ(魂)」についてはまた次回に語らせて貰います。