この国にはチベット各地と、モンゴル、ウイグルから多くの難民が集まり、漢民族の難民も数千人は流れ込んだとされます。
それは前年まで続いた「大躍進政策」の影響で、優樹と隣接する四川省だけでも餓死者が400万人に達しました。(党の報告書で)
この破滅的な政策に反対して「労働改造所」に送られた人も数知れず、それは主に四川省西の辺境の地に建てられ、そこから生きて出られたのは5%だけでした。(党の計画で)
そうした「労改」を解放する戦いから「優樹国」は発祥し、愛新覚羅傑仁の率いるモンゴル騎兵隊の活躍と、毛沢東(マオヅェドン)の右腕とされ実質的に紅軍を勝利に導いた曹希聖の知略により、5年ものあいだ防衛戦を勝ち抜きました。
それは秀祥が10歳の時からで、多感な少女時代を彼女は激動の国に暮らしました。
しかも、両親はそれぞれ漢民族とチベット人をまとめるリーダーで、常に多くの人々の求願に応えていました。
父の孫文徳は国の医療を支え、母のサラは教育を取り仕切りましたが、多くの難民が押し寄せて来る国で健康的な暮らしを維持するには、何よりも食糧生産が重要となります。
それに大きく貢献したのが「農聖サイオン」こと蔡恩諧で、彼は「個人農業の牙城」とされ曾て世界一だった福建農業の指導者でした。
そんな恩諧は当然「子供騙し」の党が押し付ける農法に反対し、「集団農業」には貢献しようとしますが、彼の意見はブルジョア的とされて「労改送り」になり、福建省でも100万人余りが餓死するコトとなりました。(それでも比較的に餓死者が少ない省です)
この史上最大の餓死者数を出した「集団農業の失敗」は物語「Shu-Shan」の命題であり、それに対するアンチテーゼ(対立命題)として優樹国での集団農業の成功を描きました。
それは現代日本のような飽食社会とは対極的なギリギリの食生活ですが、農地を搾取して豊かさを得る現代化学農法とは対極に位置する、年々農地が豊かになって行くパーマカルチャー(永続農法)に依ります。
この農聖サイオンの農法を最も熱心に学んだのはサラで、彼女の学校では農業が最も主要な課目となります。
それは多数派のチベット人全体に波及し、優樹国は辺境の厳しい条件下で突如として大所帯になりながら、見事に自給自足を為し遂げます。
当時まだ子供だった秀祥には、大した仕事は出来ませんでしたが、それでも集団農業の一員として国の為に尽くして、幼いながらも強く愛国心を懐きます。