耀郷はこれに惜しみ無く資金を投じ、中国史に遺る大葬にしようとしますが、それは沫平総長の「遺言」により、70年前に亡くなった父親の郭沫正(グォモージョン)との合葬になります。
物語が先走ったので捕捉しますと、沫正の「字(あざな)」は金正日、正恩、正男から取っており、「正しい」は名前に使うには重たい嫌いもありますが、中華圏ではよく使われています。
郭沫正の著書は党によって禁書にされていましたが、沫平の遺言から家に保管されていたのが見付かり、その70年前の天安門事件の真相を告発した書はネットにアップされて反響を呼びます。
そうしたコトから、この親子の合葬には海外からも多くの参志が得られ、「郭沫若」の子孫が如何に「言論の自由」の為に戦ったかは「ノーベル文学賞」に値すると評されます。
この欧米の評価に、中国政府はもちろん反発しますが、自国のノーベル文学賞受賞を3度も否定するコトは、さすがに独裁国家と言えども軽卒には出来ず、しぶしぶこれを受け入れます。
それは沫正、沫平の親子を毒殺した後ろめたさからでもあり、党はこの親子を讃えるコトで自分たちの罪を誤魔化そうとします。
これは、党が人民の心をこれ以上離さないタメの苦肉の策であり、沫正-沫平の親子を「人民の敵」呼ばわりするのは、明らかに部が悪いと悟りました。
そのタメ、この「中国史に遺る合葬」には党の幹部も参列して、党公認というコトで誰もが気兼ねなく参列し、その数は天安門広場での胡耀邦の葬儀に集まった百万人を上回ります。
これはやはりチベット仏教の伝統に従い49日間に渡る葬儀とし、中南海の北に在る立派な仏舎利塔で盛大に行われ、それは人民と党が話し合いの場を持つ絶好の機会になります。