本日は、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいます。
学費滞納のため大学から除籍された貧乏青年ラスコーリニコフは、それでも「優生思想」の意識を持っていました。優生思想の立場から「正当化された殺人」という独自の犯罪理論によって強欲狡猾に見える金貸しの老婆を殺害しました。
主人公の性格の中に人類共通の無意識イメージが見いだされます。「社会的な秩序」の逸脱です。自分に都合の悪い現実のルールやモラルをひっくり返して、転倒させるために、犯罪を犯すのです。社会の秩序を意味する対象に対して嫌悪感や憎悪や反発心を持ちながらも執拗にこだわり、自分を同化させていくという観念を身につけます。これは、「社会的な秩序」の逸脱によって、逆さまの身分に引き摺り下ろした者へ凶悪な言葉や行動を向けるというように表されます。
老婆殺しの事件を追及する予審判事ポルフィーリーに追いつめられたラスコーリニコフは鬼気迫る勢いで反論します。
自分のやっていることが、明らかに他者を陥れることであっても、他者にしわ寄せして面倒をかけ、疲労させ、不快にさせて、現実的な実害を与えることになると誰が考えても予測されることであっても、そんなことはどうでもいいとエスカレートさせ続けます。
彼らの三度に渡る論戦はさながら推理小説であり、翻訳を手がけたロシア文学者の江川卓は『刑事コロンボ』のような倒叙ミステリーの様相を呈していると語っています。
私が銀行に勤務していた時に、何年か後に入行してきた女性から待遇面で恨まれたことがあります。私は正社員で採用されたので、給与も賞与も有休も、すべてが、パートで採用された女性とは、かけ離れて恵まれていたのです。ズルいと非難されました。同じ仕事をしているのに、平等ではないと言い張ります。それでなくとも、女性の賃金は低いと言われていますので、私の身分をはく奪し、私の地位を転落させたいと、女のグループつくりが促進されました。
私には身分不相応の待遇であり、無能のくせにと悪口を言われました。
私が銀行を退社した理由は、もっと恵まれた環境があることを察知したためです。
女の人たちの目には、私の能力では身分不相応に見える待遇よりも、より良い待遇が私を待っていることが予感できたのです。
しかし、彼女たちは、女の集合体の特別なエネルギーを正当化することで、私を引き摺り下ろしたと妄信していました。それは錯覚で、思い込みで、歪んだ欲望がそう思わせたのです。
本当はそうではないのです。当時の私が考えていたことは、女の人たちが欲しがる表面的なものは、私には不要なのだということ。女の人たちが欲しがらないものや、興味を持たないほうへ向かうことで、私の性格を生かした生き方が見つかるのではないかと、予感していたのです。
ラストシーンでラスコーリニコフは、優生思想の対極を生きる娼婦ソーニャの徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、彼女への愛を確信します。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/tbs/world/tbs-1345507
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