バイブルプロジェクト文字起こし 申命記
申命記は聖書の5つ目の書であり、トーラーの最後の書となります。
出エジプトのあとイスラエルの民は、シナイ山に1年留まり神との契約を結びました。
その後彼らは荒野をさまよいながら悲惨な旅を続け、出エジプトをした世代は約束の地に入る資格を失ってしまいました。
申命記はモーセがイスラエルの新しい世代へ律法について説明するところから始まり、この書の構成も目的もここで明らかになります。
申命記はモーセが次世代のイスラエルに対して、神の契約に誠実であれと語る説教集です。
この書の中心は神とイスラエルが結んだ律法です。
その中には新しい律法も含まれますが、多くの律法はシナイ山で結んだ契約の繰り返しです。
これが再び命じるという申命記の名前の由来であり、ギリシャ語ではdeuteronomionデウテロノミオン第二の律法という意味なのです。
さて律法の前後にはモーセの説教が2つあります。
これらは各々二つに分かれていますが、最初の各部分を詳しく見ていきましょう。
1-11章
モーセはまずこれまでの道のりを要約しました。
前の世代が恐ろしく反抗的だったこと、それとは対照的に神が常に恵み深く彼らを荒野で養ったことについて。
確かに神は正義をもって悪を裁きましたが、契約を破棄しませんでした。
次にモーセが新しい世代に向かって契約に対して、親の世代よりも誠実であれと訴える熱のこもった説教が続きます。
モーセは彼らに十戒を思い起こさせ、さらにこのセクションの最も大事なこととして、シェマと呼ばれる有名な言葉を述べます。
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。
主は唯一である。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
(申命記6:4-5)
これはユダヤ教の重要な祈になり、聖書にあるすべてのテーマはここに集約されています。
聞けということばはヘブル語でシェマですが、これは単に耳で聞くだけでなく聞いたことに応答せよ、つまり聞き従えという意味になります。
また愛せよということばもヘブル語では、単なる感情的な愛ではなく意志と感情と思考と思いのすべてもって、自分を神に捧げるという決断のことです。
イスラエルにとって神に従い、自分をささげることにはさらに大きな意味がありました。
イスラエルは律法に従うことによって、他の国とは違う特別な民となるからです。
神がシナイ山でイスラエルは祭司の王国になると言いました。
ここでモーセはイスラエルが律法に従うことによって、神の知恵と正義を世界中に示すことができると説明しました。
シェマのもう一つの重要な要素は、イスラエルは主ただお一人に従い仕えるために召されているということです。
主はイスラエルが礼拝し従うべきただお一人の神ということです。
イスラエルが入ろうとしているカナンには多くの偶像がありました。
太陽をはじめ天気の事象などの被造物、あるいは性や戦争をかたどった神々です。
これらの神々を拝むことは人間の尊厳を貶め、共同体を破壊するものだとモーセは教えました。
しかし創造主であり贖い主であるイスラエルの神を礼拝するなら、命と祝福に導かれるのです。
さて申命記の中心にはたくさんの律法が記されており、それらはテーマ別で大まかに分類されています。
12-16章前半
最初のセクションはイスラエルの神の礼拝の仕方について。
イスラエルの民の中心には唯一の神が礼拝される宮があります。
また貧しい者を顧みることも神への礼拝でした。
たとえばイスラエル人は毎年10分の1を宮に捧げていましたが、別に10分の1は取り分けておいて3年ごとに貧しい人へ分け与えられたのです。
こういった律法はイスラエル人の正義についての感覚を近隣諸国のそれよりずっと優れたものにしましたが、それはすべて神への礼拝と結びついた行為だったのです。
16後半-18章
次のセクションは長老、祭司、王といったイスラエルのリーダーたちの資質について述べています。
彼らはみな律法の権威の下にあり神は彼らが責任を果たせるように、預言者を送って律法を守らせると言いました。
つまり王自身がまさに神であり法律であった近隣諸国とは違って、イスラエルの指導者たちは律法と預言者の下にある存在だったのです。
19-26章
次の大きなセクションは民の生活についての律法で、その内容は結婚、家族、仕事、そして未亡人や孤児、移民をどのように守るかといった社会正義についてです。
最後はさらに礼拝についての律法で締めくくられています。
さてこれらの律法を理解する上で気を付けるべきことがあります。
まずこのシナイ契約は現代の私たちとは全く違う文化を持つ、古代のイスラエル人に与えられたものだということです。
ですからこれ現代の律法と比較しても意味がありません。
むしろこの律法はイスラエルをアッシリアやバビロンといった近隣諸国とは違う存在にしておくためのものだったのですから彼らの法律と比べてみるべきです。
そうすれば厳しすぎるとか奇妙だと思われた律法が突然違って見えてくるはずです。
つまり神はイスラエルを正義においてかつてないほどの高い基準を持った国にしたのです。
最後に一つ一つの律法の根底にある、原則的な知恵や正義を見極めようとすると非常に深いものが見えてきます。
これは聖書の別の書からも学べます。
第Ⅰコリント9:9
使徒パウロが申命記25:4を引用し律法の真意を問うているとても興味深い箇所です。
さてモーセの最後の説教を見てみましょう。
27-34章
彼は全ての律法を述べた後、イスラエルに対して神に聞き従い神を愛せと命じました。
モーセはまず警告したあと、もしイスラエルが聞き従うなら神からの豊かな祝福があるだろう。
しかし聞き従わず逆らうなら、飢饉、疫病、荒廃がもたらされ最終的には約束の地から追放されるだろうと言い渡しました。
そしてモーセは今日私はあなたがたの前に、命と死、祝福と呪い、善と悪を置く。
だから神である主を愛し、聞き従い命を選びなさいと言って決断を迫ります。
しかしモーセは私の死後あなたがたは神に逆らい追放されるだろうとも言いました。
残念な話ですがこの民と何十年も共に過ごしてきたモーセにとって、彼らにあまり期待できないことは明白だったのです。
しかし希望もあります。
モーセはイスラエルはさまよってもやがて心に割礼を施し、心と魂を尽くして神を愛し生きるようにさせてくださる神に立ち返ることができると言ったのです。
このことはイスラエルの民の致命的な欠陥を表しています。
彼らの心は頑なですが実はこれは全人類に共通しており、元をたどればエデンの園での反逆に行き着くのです。
人は神の権威を奪い取り、善悪の判断を自分でしたいと願った結果神の善き世界を台無しにしました。
しかし神はいつの日か人の心を作り変え、彼らが真心から神に聞き従い愛し、真の命に導かれるようにしてくださるとモーセは言ったのです。
この心が新しくされるという約束は、後に預言者エレミヤとエゼキエルによっても語られます。
モーセは警告と祝福を語って説教を終えると山に登り、死を迎えトーラーも終わりを迎えます。
聖書のストーリーは全部並べられていますが、何一つ解決がありません。
悪を打ち砕く女の子孫はいつ来るのでしょうか。
神はどのようにして全世界を救い、アブラハムの子孫を通して全ての国を祝福してくださるのでしょうか。
また神の聖なるご性質は絶えず反抗する民と、どう折り合いをつけられるのでしょうか。
そして神はどのようにして人の心を変えてくださるのでしょうか。
答えはまだ先を読まなければわかりませんが今日はここまで。
これが申命記です。
完