ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

石破政権とトランプ

2025-02-11 09:22:42 | 日記
トランプ米大統領と我が石破首相との会談がどうなったか、私はとても気になっていた。日本の行く末を案じてのことではない。
トランプといえば、その無茶ぶり発言と、型破り・びっくり発言で国際世論を呆れさせ、あるいはあっと驚かせるのが常の、超大国のリーダーである。
今回の日米首脳会談では、想定外のどんなトンデモ発言が飛びだしたのか、私は野次馬的な興味からわくわくと首を長くしていた。

会談は日本時間の2月8日未明に行われる、ということだった。
その日の朝、私は会談の結果を早く知りたくて、朝食をとるとさっそくネットのニュース記事に向かった。
だが、どの記事も「想定外のトンデモ」が起こったとは書いていなかった。「想定外のトンデモ」を期待していた私には、「想定外のトンデモ」が起こらなかったことそれ自体が「想定外のトンデモ」であり、期待がはずれて、まるで肩透かしを食らった感じだった。

こうした事の成り行きは、我が日本政府がトランプ対策の一環として、その「傾向と対策」を綿密におこなった結果に違いない。どうすればこの傍若無人な頑固爺さんの、その型破りな「無茶ぶり発言」を封じられるのか、そのあたりを政府職員が一丸になって入念に検討したのだろう。

日本政府が出した答えは、会談のあとすぐに出された共同声明がよく示している。
日本は「トランプがCEOに就任したアメリカ株式会社」のよき顧客(クライアント)だということ、このことを知ってもらえばよい。

日米両首脳の共同声明には、日本が「アメリカ株式会社」に1兆ドル規模の投資を行うこと、米国産のLNG(液化天然ガス)を大量に買い付け、これを輸入することなどが謳われた。

対日貿易赤字を解消するため、トランプは今後、日本製品に高率の関税をかけるのではないか、との予測がある一方、米国産LNGの大量輸入で、アメリカの対日貿易赤字はほぼ解消するはずだ、との見方もある。
我が日本政府はそのあたりまでよく検討したようだ。

石破さん、なかなかやるじゃないか、と言いたいところだが、きょうの朝日新聞によれば、トランプ大統領は「米国が輸入する鉄鋼・アルミニウムに対し、25%の関税をかける」と表明した。日本製の鉄鋼・アルミニウム製品も課税の対象になる可能性があるという。

ああ、意外や意外、想定外のトンデモ発言はこんなところにあったのか、ということである。

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〈他力〉について

2025-02-09 09:01:47 | 日記
けさ私は朝メシをたべた。メシといっても、たいていはパンである。けれども私は「きょうは味噌汁にご飯がいいなあ」と考え、和食風の朝メシを食べることだってできる。
いや、そうではない。実際はそんなことは不可能だ。パン食をつくるのも、味噌汁をつくるのもすべて家内任せだから、私は「きょうは味噌汁にしてほしい」などとは言いだせないのである。そんなことを言ったら、私は三日間、家内から口をきいてもらえないだろう。

デイサ行きにしても然り。「きょうは休むことにしよう」と思えば、私はデイサに行かず、自室に引きこもることもできる。
実際はそうではない。よほど体調が悪いのでなければ、私は何も考えないまま、「●曜日はデイサに行く」というルーチンのベルトコンベアーに乗っていることだろう。独り自室に引きこもっていても、良いことは何もない。ヒマを持て余し、退屈で退屈で、鬱陶しいばかりだ。

ことほど左様に、私の行動のレールは決まっている。にもかかわらず、私は「デイサに行く/行かない」を、自らの意志によって自由に選択できると考える。「パン食にする/和食にする」を、自らの意志によって自由に選択できると考える。そんなふうにして、「レールを決めるのは、この俺様だ」と考えるのである。

だが、いずれにしてもそんなことは大したことではない。前回、引用した箇所で親鸞は言っていた。「人を殺す/殺さない」のように、自分の意志ではどうにもできないことがある。そういうことがあるのではないか。

うんうん、たしかにそうだ。病(やまい)なんかもそうだよなぁ・・・。前回とりあげた『最後の親鸞』の当該箇所を最初に目にした二十数年前、私はそう思ったのだった。

このとき私はまだ脳出血の病魔に襲われてはいなかった。まだ若く、元気だった。
その後、私は脳出血の病魔に襲われ、半身の自由を奪われたが、そうなってみて、なおさらそう思う。
私が脳出血に倒れ、不自由な身体になったのは、私の意志とは何の関係もない〈不可避〉の出来事だったのだ、と。

『最後の親鸞』のなかで、吉本隆明氏は(「一人でも 殺す機縁がないからこそ 殺すことをしないのだ」という『歎異抄』のことばを「〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない」と言い換え)こう書いている。

「〈契機〉(「業縁」)とは、 どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉うながされて生きるものだ、と云っていることになる。」(35頁)

この〈不可避〉の力、それを仏教用語で〈他力(たりき)〉と言い換えることもできるだろう。我々が病気になるのもならないのも、もっと言えば我々を生かすのも殺すのも、この〈他力〉次第なのだ。

私は今75歳。日本人の平均寿命は男が82歳ということだから、私の老い先はもうほんのわずかしかない。あした死んでもおかしくない年齢である。
だが、そんなことでくよくよ思い悩んで何になるというのだ。私があと何年生きられるかなんて、すべては〈他力〉次第なのに。

この〈他力〉がどんなものなのか、残念ながら私は知らない。だがこれを「み仏の御心」ととらえ、「死ぬも生きるも、すべては仏さまの御心次第だ」と考えると、私の心はとたんに軽くなる。
死の恐怖にとらわれていたそれまでの自分が、嘘のように思える。

もしかすると、これが「悟りを開く」ということなのかもしれない。
よくわからないが、そんな気がするこの頃である。南無阿弥陀仏。


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最後の親鸞

2025-02-07 09:17:18 | 日記
デイサで次に読む本は、何にしようか。これといって読みたい本が思い浮かばなかった私は、文庫本の書棚から一冊の本を引っ張り出した。
最後の親鸞』(吉本隆明著・ちくま学芸文庫)である。

奥付を見ると、「2002年第1刷発行」とある。23年前のことだ。『共同幻想論』の著者が書いたこの本を、私は多分そのころに買ったと思う。読みはじめたものの、歯が立たず、途中で投げ出してしまった記憶がある。
にもかかわらず、どういう気まぐれからか、きのうはこの本にもう一度挑戦してみようという気になったのである。
浩瀚な『暇と退屈の倫理学』を読了したことで、最近私は「忍耐と訓練によって読書・思考の楽しみを味わうこと」を学び、一段と忍耐強さに自信を深めた。過信の盲動によって、「何でもござれ」の心境だったのかもしれない。

デイサのスキマ時間にさっそくこの本の頁を開くと、その昔、鉛筆で下線の標しを付けた箇所が出てきた。この箇所に私がなぜ標しを付けたのか、昔の記憶がよみがえった。

引用が少々長くなる。
こんな長ったらしい引用をしても、たぶん誰も読んではくれないだろう。そう思いながらも、その箇所(33〜34頁)を引用するのは、この部分を打ち込むのにかなりの手間がかかったからである。
せっかくの「努力の結晶」を無駄にするのは忍びない。
それに、「この箇所を読んで、私はかくかくしかじかと思った」と書きたいのだが、この私の受けとり方が当たっているかどうか、読者に判断していただきたいと思う気持ちもある。


あるとき唯円房は『わたしのいうことばを信ずるか』と云われたので『おおせのとおり 信じます』と 申しましたところ『それならわたしの云うところに背かないか』と再度云われましたので 、つつしんでおおせの主旨をうけたまわる旨申し上げましたところ『たとえば人を千人殺してみなされや、 そうすれば 往生は 間違いないだろう』と云われましたが『おおせではありますが、 一人でさえもわたしのもっている 器量では、 人を殺せるとも思われません』と申し上げました。 すると、『それならば、どうして親鸞の云うことに背向かない などと云ったのだ』と申され、『 これでもわかるだろう。何ごとでも 心に納得することであったら 、往生のために千人殺せと云われれば、そのとおりに殺すだろう。 けれど 一人でも 殺す機縁がないからこそ 殺すことをしないのだ。 これはじぶんの心が善だから殺さないのではない。 また 逆に、 殺害などすまいと思っても百人千人を 殺すこともありうるはずだ』」と申されました(・・・)。(『歎異抄』13)〔吉本訳〕」

この箇所を読んで、私はこう思ったのである。ここには人間の自由意志、選択意思を否定する親鸞独自の思想が表されている。そう思って、私は「そうだよなあ」と思わず膝を打ったのだった。

どういうことか。

たとえば私があるとき、悪魔に次のようにささやかれたとしよう。

「なあおまえ、人を千人殺してみないか。そうすれば、おまえは間違いなく極楽に行けるぞ」

そうささやかれた私は、咄嗟に、機関銃を構えた自分の姿を想像する。引き金に指をかけた自分の姿を想像する。すると次に、何人もの人が血まみれになってのたうち回り、苦しみ悶える阿鼻叫喚の地獄絵図が浮かんでくる。
私は気圧されて、「いや、とてもそんなこと、自分にはできない!」とつぶやく。

おそらく私は、たった一人の人でさえ殺すことはできないだろう。
それは私が「良心」を持った「善良な一市民」だからではない。
トイレの便器に手を突っ込むことができないと同じように、私は人を殺すことができないのだ。ただそれだけのことである。

では、私には金輪際、人殺しができないのか。
「いや、そうなったら、やっちまうかもしれないなあ・・・」と私は考える。何かが原因で、自分も激情に駆られることがあるだろう。。
たとえば自分の子や孫が殺されている現場を見たとき、私は、目前にいる殺人者を殺してしまわないだろうか。絶対に殺さない、と私は断言することができない。
親鸞は「一人でも 殺す機縁がないからこそ 殺すことをしないのだ」と言うが、これは裏返せば「〈機縁〉さえあれば、人は一人でも千人でも人を殺すことがあり得る」ということにほかならない。

前回は『暇と退屈の倫理学』を取り上げたが、この本の著者である國分功一郎氏は『100分で名著スピノザ・エチカ』の中で、次のように書いている。

私たちは 自由の話をすると すぐに 『意志の自由』のことを考えてしまいます 。そして 人間には 自由な『意志』があって、 その意志に基づいて行動することが 自由だと思ってしまうのです。

こう書いた上で、國分氏は、現代の常識ともいえるこうした「意志教」に批判の矢を放つのだが、(「歎異抄」における)上の引用箇所に見られるのも、この國分氏と同種の(「意志教」信仰を批判する)考え方にほかならない。私はそう解釈したのである。

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暇と退屈のデイサで

2025-02-05 09:06:55 | 日記
やっと『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著、新潮文庫)を読み終えた。頁数にして500頁の大著である。デイサでの(リハビリ待ちの)スキマ時間に読んだので、ずいぶん日数がかかった。

この本は軽いノリで読めるノベルの類ではなく、どちらかといえば重たい内容がぎっしり詰まった思想書である。途中で投げ出さず、最後まで読み通せたのは、この本が私のアタマと馬が合ったというか、著者の思考と私の思考と、その波長がうまく噛み合ったからだろう。

私は著者の國分功一郎氏を、NHK「100分de名著スピノザ」の講師として知っていた。私より二まわりも年下の「若手」だが、スピノザを論じたその力量に脱帽したものだ。
この人の『暇と退屈の倫理学』は以前から読みたいと思っていた。デイサへの携行に便利な文庫本に収録されたのは、運がよかったと言うべきだろう。

デイサの待ち時間にこの本を読もうと思ったのは、以上のような経緯のほかに、私自身が「暇と退屈」を持て余していたこともある。特にリハビリを待つスキマ時間には、暇で暇でどうしようもない自分がいた。
デイサの介護士さんは当初、私に「脳トレ」のドリルをやることを勧めたが、私はこれには満足できず、ほとほと退屈していた。

暇と退屈」を持て余していたデイサのスキマ時間に、「暇と退屈の倫理学」を読むというのは、とてもおシャレなシャレのようで、なにやらジョークめいてもいるが、読み終わった今では、これが大正解だったことがわかる。

デイサの喧騒の中では、この思想書をすいすい読み飛ばすことはできない。私は勢いこれにじっくり向き合うことになる。そのスピードがたぶん私の体質に合っていたのだろう。私はこの本を楽しみながら読むことができた。

ふだんなら、せっかちな私は「早く読み終わらねば」と焦りが先に立つのだが、この本の場合は、じっくりその余韻を味わうことになり、そこに悦楽を感じたのである。
この本を読みながら、「こういうふうにして時間を埋めるのも、なかなか好いものだなあ」と私は思った。
著者の國分氏がこの本を通して言いたかったのも、そういうことだったようだ。忍耐と訓練によって読書・思考の楽しみを味わうことを学ぶ、ーーこの本を通して、私はそれを学んだような気がする。
デイサでの暇潰しに『暇と退屈の倫理学』を読む、ーーそれはとても乙な時間だった。

さて、デイサのスキマ時間に、次は何を読もうか。

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参考人招致をめぐる国会審議のドタバタ(その2)

2025-02-03 09:52:41 | 日記
(承前)

民主主義の本質、ーーそれは、この政治体制が問答無用で少数派を切り捨て排除し、多数派(マジョリティー)の意見だけを是認することにほかならない。
フランスの思想家トクヴィルは約200年前、このやり方を民主主義の欠点とみなし、これを「多数者の専制(tyranny of majority)」と名づけた(『アメリカの民主主義』)。

注目すべきは、この「多数者の専制」からどんな事態が生じるかである。
「数の力」に物を言わせる民主主義の政治体制では、多数派工作がさも大事なことのようにみなされ、これをめぐって政界のドタバタ劇がくりひろげられることになる。
このどさくさの中では、ホントに「大事なこと」は容易に見失われてしまう。議題にのぼる法案の中身など、だれも問題にしようとはしないのだ。
これが民主主義の第一の欠点(=多数者の専制)がもたらす、もう一つの重大な欠点だと言ってよい。
たとえば今年度の予算審議について、朝日新聞は社説で次のように論じている。

(政権与党が少数派となったことで)審議環境は一変した。(中略)
懸念もある。(少数派の)与党は予算案への賛成とりつけのため、一部野党と協議している。国民民主党は大規模減税を、日本維新の会は高校無償化を主張し、修正を求める姿勢だ。
だが、それぞれの必要性や実現の手法、財源の議論は深まっていない。

(朝日新聞1月31日)

財源の議論が蔑(ないがし)ろにされたまま、予算審議が進められるとしたら、国家財政にとってこれほど危ういことはない。

ところで、きのうの「参考人招致」をめぐるドタバタを(民主主義の欠点によるものではなく)与党の頑迷さ・野党の正当な自己主張によるものとみなす傾向がある。
「真相を覆い隠そうとする自民VS真相を明らかにしようとする野党」という図式的な見方が、その典型である。
招致に反対することで、実態解明に後ろ向きな姿勢がさらに鮮明になることは避けられない」と朝日新聞は書くが、
「招致に反対=真相の隠蔽」というこの種の言説がまかり通るのは、長年の自民党政権下で、「与党は平気で真実を隠す、野党こそが真実を言う」と判断する習慣を、国民が身に着けてしまっているからである。

ことほど左様に、与党は国民から信頼されないのだが、
それは与党が政権維持のために、何度となく国民を騙してきた結果である。つまり身から出た錆(さび)なのだ。
なんだかなあ・・・。

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