きょうからブログを再開しようと思う。ブログを再・再開するにあたって、私はこのブログのタイトルを変更しようと思いをめぐらせた。「ささやんの天邪鬼 ネットの森でぶらりぶらり」にしようか、それとも「ネットの森でぶ〜らりぶらり」がいいのか、「ネットの森でぶらぶらり」がいいのか・・・。
タイトルを「ネットの森で・・・」に変えようと思ったのは、このブログを再開前のスタイルに戻そうと目論んだからである。ネットの森の散策の道すがら、気になった記事を取り上げ、それについて「天邪鬼」な私見を吐きつらねる、というのが、本ブログの従来のスタイルだった。
ところが病院という退屈・陰鬱な「ロドス島」で、暇つぶしにこのブログを再開してから、私はこのスタイルにはこだわらなくなっていた。
思うに、ブログには大まかにいって2つのタイプがあるのではないか。ひとつは、自分が体験した日々の出来事や振る舞いについて描こうとするもの、もうひとつは、そんな身辺の雑事には関わらず、世を騒がしている社会的な事件を取り上げ、それについて論評を加えようとするものである。
私が後者のスタイルをとったーーいや、とらざるを得なかったのは、自分が脳卒中の後遺症で、自由気ままに出歩けない半身不随の身体になってしまったからである。名所とされる観光地に行って雄大な絶景に感動し、評判のお店で名物グルメを堪能しました、などという記事は、片麻痺の私には逆立ちしても書けるわけがない。勢いこのブログでは、私は世相を騒がす社会的事件を取り上げ、勝手に「天邪鬼」な正義論を振りかざして悦に入ることになった。
ポリシーというほどではないが、ほぼ定まっていた本ブログのそんな傾向に、大きな変化が生じたことは、読者諸賢がお気づきだろう。4ヶ月ぶりに再開した本ブログで、短い期間ではあったが、私は入院を機に我が身を襲った身辺環境の変化について、あれこれと書き連ねたからである。私の身辺に生じた変化は、ブログ記事の絶好の材料であるように思われた。絶好の材料があれば、料理するのは簡単だ。
しかし魔の筑波記念病院をなんとか退院し、4ヶ月半ぶりに自宅に戻って本ブログを再・再開した今、私はもう自分の身辺雑事について書き連ねることはできない。私が直面したのは、そっくりそのまま4ヶ月半前の現実ーー何事も起こらず、なんの変哲もない引きこもりジジイの平々凡々たる日常であり、それについて書き連ねることは、無意味を垂れ流すこと以外の何ものでもないように思えるからである。
さて、久しぶりに自宅で再開したこのブログ、あしたは何を書こうか・・・。
タイトルを「ネットの森で・・・」に変えようと思ったのは、このブログを再開前のスタイルに戻そうと目論んだからである。ネットの森の散策の道すがら、気になった記事を取り上げ、それについて「天邪鬼」な私見を吐きつらねる、というのが、本ブログの従来のスタイルだった。
ところが病院という退屈・陰鬱な「ロドス島」で、暇つぶしにこのブログを再開してから、私はこのスタイルにはこだわらなくなっていた。
思うに、ブログには大まかにいって2つのタイプがあるのではないか。ひとつは、自分が体験した日々の出来事や振る舞いについて描こうとするもの、もうひとつは、そんな身辺の雑事には関わらず、世を騒がしている社会的な事件を取り上げ、それについて論評を加えようとするものである。
私が後者のスタイルをとったーーいや、とらざるを得なかったのは、自分が脳卒中の後遺症で、自由気ままに出歩けない半身不随の身体になってしまったからである。名所とされる観光地に行って雄大な絶景に感動し、評判のお店で名物グルメを堪能しました、などという記事は、片麻痺の私には逆立ちしても書けるわけがない。勢いこのブログでは、私は世相を騒がす社会的事件を取り上げ、勝手に「天邪鬼」な正義論を振りかざして悦に入ることになった。
ポリシーというほどではないが、ほぼ定まっていた本ブログのそんな傾向に、大きな変化が生じたことは、読者諸賢がお気づきだろう。4ヶ月ぶりに再開した本ブログで、短い期間ではあったが、私は入院を機に我が身を襲った身辺環境の変化について、あれこれと書き連ねたからである。私の身辺に生じた変化は、ブログ記事の絶好の材料であるように思われた。絶好の材料があれば、料理するのは簡単だ。
しかし魔の筑波記念病院をなんとか退院し、4ヶ月半ぶりに自宅に戻って本ブログを再・再開した今、私はもう自分の身辺雑事について書き連ねることはできない。私が直面したのは、そっくりそのまま4ヶ月半前の現実ーー何事も起こらず、なんの変哲もない引きこもりジジイの平々凡々たる日常であり、それについて書き連ねることは、無意味を垂れ流すこと以外の何ものでもないように思えるからである。
さて、久しぶりに自宅で再開したこのブログ、あしたは何を書こうか・・・。